第29話
僕は気が付くと旅館の一室にたどり着いていた。
市内から離れ、急な山道を二十分ほど歩いたはずだった。
急な道を歩いているのに、不思議と疲れを感じなかった。
額に浮かぶ汗に気づき、タオルで顔を拭きながら、冷蔵庫から冷たい水を取り出す。
喉に流し込むと、体中に染みわたる。
汗をきれいに拭き取り、テレビをつけて座椅子に座る。
画面から聞こえる声が少しずつ小さくなる。
ただ、それを聞き流すだけで十分だった。
「美咲は露天風呂か?」
誰かに体を揺さぶられ、目が覚める。
どうやら僕は、眠りについていたようだった。
部屋を見回している叔父さんの姿が見える。
「ねーさんとは途中で別行動になって……」
頭を軽く振りながら答える。
「馴染みのない土地で、女の子を一人ほっといて。何やっているんだ」
叔父さんの怒号に、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「ごめん。ねーさんが、一人になりたいというから」
僕は、肩をすぼめる。
「すまない。理由を聞かずに怒鳴って悪かった」
叔父さんは、はっきりと僕に聞こえるように謝罪した。
「ねーさんに、電話してみるよ」
スマートフォンを開くと、16時10分を過ぎていた。
通話履歴の先頭にあるねーさんの番号を選び、発信した。
しばらくすると、「電源が入っていない」という無機質な音声が流れるだけだった。
部屋にメモを残し、僕と叔父さんはねーさんを探すこととした。
叔父さんは市内を探し、僕は周辺の山道を探すことにした。
見つけたときと1時間ごとに、定期連絡をすることにした。
僕は、望遠レンズをつけたカメラを首からぶら下げていることを、このあと後悔することになった。
旅館から出てしばらくすると、午前中の晴れ間が嘘のように、少しずつ黒い雲が上空を覆い始める。
シャツにポツリと水滴が落ちた。
直後、木々を叩く激しい雨音が辺りに響き渡った。
雨を避けるように、近くの道路脇の木の下に身を寄せた。
カメラをリュックに急いで片付け、視界の悪くなった道を見つめていた。
いっこうに降りやまない雨を見つめながら、はやる気持ちを抑えることしかできなかった。
叔父さんからの定期連絡で、1時間も無駄に立ち往生していることを理解した。
雨が止んだのは、叔父さんの電話から10分後のことだった。
道路に戻り、市内に向かって歩き始めると、分かれ道に差し掛かる。
旅館までは大きな看板でわかりやすく示されていたが、この雨の中だ、間違えて逆の道に入った可能性がある。
僕は、旅館とは逆の道を駆け上がっていく。
アスファルトの上に流れ着いた土に足を取られることを気にしなかった。
どのくらい走ったかは分からないが、道路の外れの木の下に佇む人影が目に入った。
足を止め、ゆっくりと近づくと、見覚えのあるシルエットだった。
「心配したんだよ」
僕は、ほっと息を吐きながら、美咲の方に歩みを進める。
「来ないで」
美咲は慌てて、僕に背中を向ける。
「これ以上心配させるな」
思わず声を荒らげていた。
「違うの。服が濡れていて……」
美咲は、胸元を両手で覆っていた。
「これ、使って」
僕は、カメラを拭くために用意していたタオルを、美咲の肩に掛けた。
「美咲が無事で本当によかった。さっきはひどいこと言って、ごめんなさい」
いつもの僕が取り戻せたような気がした。
「私こそ……、いろいろとごめんなさい」
美咲の声は、いつもより高く感じた。
リュックから落ちて傷ついた望遠レンズに、しずくが落ちる。
そのことに気づくまでに、時間はかからなかった。




