――異世界書記―― 第三章 第十節 表と裏⑥
こんなはずではなかった……。
完全に想定外の事態。
あと……あと一歩というところなのに……。
神を滅ぼす力を、世界を手に入れる力を――。
戦闘は誰が合図をするでもなく始まろうとしていた。
燃えさかるドレスを纏う魔女は、既に人間と呼べる存在ではなくなっていた。
火葬場で見覚えのある、人骨が燃え残ったかのような色の肌に赤い眼。燃えさかるように髪を逆立て、理性を失った獣のように、魔女は怒り狂っている。
魔女は柱に括り付けられていた女たちに念を送ると、その全身が炎に包まれた。
炎が火の粉となって消え去った時には、女たちは既に原型を留めていなかった。魔女と同じ皮膚の色をした人ならざる者――言うなれば精霊のような存在――へと変えられた4人の少女たちもまた、理性と呼べるものは感じられなかった。
悲痛な叫び声を上げながら、うねるように宙を舞う。
「悲痛なる叫びの妖精たちよ……神を呪え。その悲哀なる叫びをもって――!」
4人のバンシー達は主人の意を介すように奇声を上げながらこちらへと向かってきた。
俺とネメアを取り囲むように宙を舞う。
そして気の滅入るような奇声を発した――!
バンシー達の発する奇声は精神への作用を及ぼす状態異常攻撃に違いない。
今の俺のレベルではこの状態異常への耐性はおろか、耐性魔法も治癒魔法も会得していない。
このままでは錯乱するのも時間の問題か――。
俺はネメアへ視線を送った。
ネメアは意を汲むように頷くと、その姿を霊体化させ見えなくなった。
「そう悲しそうに喚くなよ……。もうすぐ楽にしてやるからな」
――管理代行権限、空間に干渉する効果“静寂なる聖域”!
俺が発動したエフェクトにより、周囲一帯は無音の空間に包まれることとなった。音による対人対物干渉が無効となる空間を作り出すことにより、バンシーによる精神作用のある声を消すことができた。
まぁ、俺や敵の声も聞こえないし、足音なんかも聞こえないから隙を生じてしまうことには違いない。
だが、こちらには頼もしい味方がいる。
――“死の代行者”。
音もなく、影もなく、気配すら感じさせることなく忍び寄る怪異――。
それが味方の所業であり、とてつもない力を持つ幽霊の技であることはとても頼もしく、同時に恐ろしくもあった。
ネメアがその姿を再び現した時、4人のバンシー達は四肢や首、胴体などバラバラに斬られ、終いには霊体による業火、鬼火によって跡形もなく燃やし尽くされていたからだ。
もはや魔女の百年により積み重ねられた努力の結晶は、この鬼と化した幽霊には一切通じないようだ。
なにせ、相手の専売特許である炎をたやすく扱えるようにすらなっているのだから。
ネメアは魔女へと近づいていく。
魔女の表情は今となってはよくわからないが、たじろいでいるところを見るときっと戸惑っているに違いない。
もはや切れるカードは己のみ――。
魔女はネメアへ向けて無数の火炎弾を放った。
そして、追い打ちをかけるように足元に魔法陣を生成し、そこから炎の柱を突き立てるように燃え上がらせた。
もちろん、霊体であるネメアであっても魔法による攻撃は防げるはずがない。
しかし、ネメアはその炎の攻撃に全く動じることなく、淡々と歩みを進めていった。
ネメアの口元が動いている。
今展開している静寂なる聖域の影響で何を言っているかは聞き取れない。
断頭鉈を引きずりながら、一歩、また一歩と魔女へと近づいていく。
その悲しげな表情が閉じられた時、ついに壁際まで魔女を追い詰めていた。
魔女の炎はネメアを止めることさえできない。
絶望の表情に歪んだ魔女へ、ネメアは一呼吸置きながらこれまでの長い長い時間を噛みしめるように閉じていた目を開いた。
そして、再びネメアの口元が何かを呟くように動くと、無慈悲な一頭が魔女の頭上から一直線に振り下ろされた――。
音のない世界――。
きっと、そこには数多の恨みや憎しみが渦巻いていたことだろう。
無音でありながらも、それを感じさせる表情と動作が俺の目に焼き付いて離れない。
だが、しかし――それがほんの一瞬の出来事であったとしても、それ以上の苦痛を、孤独をネメアは百年耐えてきたのだ。魔女の苦痛など、一瞬の断末魔でしかなかった。
それでも、ネメア。お前はそんな表情をするんだな。
恨み恨んで、幽霊になってまで果たしたかった無念のはずなのに、その目には、二筋の雫が零れていた。




