――異聞録―― 第十一項 「監獄の乙女」
朝日の差し込む窓辺に彼女の眠るベッドが置かれている。
よほど疲れていたのだろうか、衣服は床に脱ぎ捨てられており、彼女の部屋の入り口からその軌道をたどるように点々と落ちている。
そして、最後は本体であるその体が吸い込まれるように俯せで眠っていた。
スラリと伸びた脚がベッドからはみ出ているのを朝日が照らし始めると、ベッドの中でもぞもぞとするようにして彼女の1日が始まった。
ビギナポストは活気に満ちていた。
しかし、それは市場に集う旅人のものではない。
大陸南部に位置するこの街は、山脈を迂回する旅人たちにとってルートタウンになるはずだった。
ところが、肝心の西側にあった農村が魔物にあふれて滅びてしまったのを皮切りに、この街に来ていた行商の数が減ってしまったのだ。
以来、ビギナポストは当初の活気を失っていたものの、それでも街を盛り上げようとする商業組合のお陰でどうにか平穏を留めていた。
しかし、それはいつまでも続くはずがない。
王族が、貴族が、何も手を打たないまま税だけは取られていく。
搾取され続けてもなお、商業組合が正気を保てたのは、酒場の彼女のお陰だった。
早朝、彼女の仕事は店の掃除から始まる。
テーブルを、床を、手際よく磨き上げた後、彼女は市場へと向かう。
その日の仕込みの材料を買うためだ。
「朝早くから偉いねぇ。うちのどら息子にも見習わせたいくらいよ」
「いえいえ、息子さんにはいつも酒場の片付けを手伝っていただけてとても助かっています」
「そんなのあなた目当てに決まってるじゃないのさ。下心がないと働かないのよ、全く……」
「働く元気がでるのなら、それが1番じゃないですか!」
「あんた、ホントにいい娘さんだねぇ。どっかお偉いさんにでも貰ってもらいたいくらいだよ」
「私、平民の町娘ですよ? そんないい話があるわけ――」
そんな二人の会話を遮るように、執事らしき男が声をかけてきた。
「失敬。お嬢さん、もしよろしければお話できませんかな?」
被っていた帽子を外すと人柄の良い、温厚そうな老人だった。
「申し遅れました。私、チャダルヌーク家の執事を務めておりまして、旦那様がお嬢さんに是非とも話をしたいと」
老人が振り返ったその方向に、いかにも貴族らしい煌びやかな服装に包まれた男が立っていた。
◆
「わ、私を使用人に!?」
「えぇ、是非ともお嬢さんに我が屋敷で働いていただけないかと思いましてな。先日の祭りでの舞踊は誠に見事でございました。加えてその美貌と気立ての良さに惚れ込んでしまいましてな。父君、いかがでしょうか」
「め、滅相もございやせん! 旦那様にお願いをいただくなんてとんでもねェです……是非是非、こき使ってやってくだせェ」
「と、父ちゃん! いいの? 私が使用人になったら、この店は……」
「ば、バカ! こんな話早々無ぇんだぞ! 店のこたァ大丈夫だから、安心して行って来い」
「父ちゃん……」
「父君が心配なら、まとめて面倒を見て差し上げても良いのですぞ?」
「い、いえ……それには及ばねェです……娘のこと、よろしくお願いいたしやす……」
話はトントン拍子に進み、彼女はあっという間にチャダルヌーク家に奉公することとなった。
街の人との別れを惜しむと、市場街の住人たちは皆全力で応援してくれた。
笑顔で屋敷へと向かって行く彼女を見送る誰もが、彼女の幸せを信じて止まなかった。
◆
屋敷に着くや否や、彼女を待っていたのはこれまでの生活とは打って変わった華やかな屋敷と綺麗な装飾、そして、使用人の綺麗な服装だった。
急いで支度をすると、執事から使用人たちへ紹介され、温かく迎え入れられた。
チャダルヌーク家はとても穏やかな一族であった。
貴族という誇りに溺れず、驕らず、誰に対しても公平でそして温かい。
特に当主である主人は使用人一人一人に気を配ってくださったので、彼女としても働きやすく、そして働き甲斐があった。
ただ、唯一気がかりなことがあるとすれば――。
「ちょっと、そこの床ベタベタするんだけど? ちゃんと掃除してらっしゃるの?」
ご令嬢の存在だった。
「申し訳ございません。すぐに掃除いたしますので」
「ふん。当たり前でしょ? さっさと拭いてよね。舐められるくらいに」
ご令嬢はチャダルヌーク家の末妹であった。
兄や姉たちとは母親が唯一異なり、出生が平民の母であったためコンプレックスを抱えていたのだ。
「ほら、早く拭きなさいよ」
「はい、ただ今……」
床のベタつきなどどこにもあるはずがない。
朝起きてからすぐ、磨き上げるように床を掃除したのだから。
床に手をつき、雑巾で拭き始めた途端、頭上から頭の後ろに何かが滴っていた。
それが頭から顔や首を伝って床に垂れていく……松脂だ――。
「ほら、あんたみたいな平民が掃除するから床が汚れて仕方ないじゃない。5分以内にどうにかしなさい。さもないと、お父様に言いつけてやるんだから」
凍るような視線。
まるで人間を見るような目ではないほど、冷たく乾いた表情をしていた。
令嬢の去り際に、嘲り笑う高らかな声が屋敷中に響いていた。
周りで見ていた使用人たちも、令嬢の前では見て見ぬ振りをせざるを得なかったようだが、令嬢が私室に戻るのを見計らって、声をかけに来てくれた。
「大丈夫?」
「ついてなかったね……」
「早く落とさないと……」
彼女は自身に何をされたのかしばらく理解できず固まっていたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「すみません、床を汚してしまいました。どなたか、余っている料理酒などあれば持ってきていただけませんか?」
松脂を落とすにはアルコールだ。
純度の高い酒は高級品であったが、料理酒を少量使う分には大丈夫だろう。
髪の毛や体にこびりついた松脂には気を止めず、彼女は適量布に湿らせると手際よく床を拭き上げた。
「すごい……あっという間に綺麗になった」
「どうしてお酒で落ちることを知っているの?」
「ふふ。偶然よ」
もちろん、偶然であるはずはない。
平民で働き者だった彼女だからこそ知っていたのだ。
床の掃除を仕上げると、彼女はその足てスタスタと歩き始めた。
「どこに行くの?」
「ちょっと、ご報告に」
彼女は、歩きを止めると、部屋に向き直ってドアをノックし始めた。
――令嬢の部屋を。
「失礼いたします。床のお掃除が終了いたしました。この度は不手際を見せてしまい、申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げると、眉間に皺の寄った令嬢の表情を意に返さず彼女はゆっくりと扉を閉めた。
◆
貴族の屋敷での生活も、元の生活とあまり違いはなかった。
あったとすれば、部屋で眠る二人の同居人と、家よりもふっくらとしたベッド、そして、まともな食事だった。
あまりの美味しさに、初めて食べたときは涙がこぼれたほどだった。
ある時、倉庫に盗賊が入ったことがあった。
使用人からの報告を受け、主人が兵を数名引き連れてきた時、盗賊は一人の女性に打ちのめされ、縛り上げられていた。
片手にはセレアルを捏ねる麺棒が握られていた。
「ご、ご主人様……こ、これは、はしたない所をお見せ致しました」
麺棒を後ろ手に隠しても、その功績は隠せない。
主人は大いに驚き、その勇敢な姿勢にますます惚れ込み、彼女を養子に招き入れることにした。
ほどなくして、チャダルヌーク家の使用人の話は貴族中に広まった。王家がその噂を耳にするのは時間の問題だった。
◆
「綺麗だね」
髪を梳かす使用人の娘にそう声をかけられながら、彼女は照れていた。
「なんか……おかしいよね。私、平民で、あなたの同僚だったのに」
「ううん。いいの。あなたは不思議な人だから」
シルクのドレス――。
平民には決して手の届かない、その高価な衣装を身につけ彼女は戸惑っていた。
人生という一つの物語に、私のように数奇な内容を綴った人物がいるのだろうか、と。まるで、運命の神に弄ばれているのではないだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
「私、どうなっちゃうのかな」
「うーん……もしかして、王族に見初められたりして」
「まさか!」
彼女の部屋からはいつも明るい笑い声が聞こえていた。
その声を聞きながら、恨めしそうに虚空を見つめる令嬢のことなど気にも留めず――。
「さて、これでおめかしは終了! 舞踏会、頑張ってね」
「うん……緊張するなぁ」
「あなたなら大丈夫! じゃあ、帰ったらお土産話楽しみにしているからね!」
そう見送られて、彼女は馬車に乗った。
馬車にはそそくさと乗り込んでいた令嬢が既に腰掛けていた。
「……随分とご機嫌そうね」
「そんなことは……」
「いいご身分ね。平民が、王家の舞踏会に呼ばれていい気になっているんじゃなくって?」
「……なぜ、そう構えるの?」
「……なんですって?」
「あなたは、綺麗だし、品があって、身分もしっかりしている。普通におしゃべりして、普通に笑って過ごせば、あなただって――」
「黙りなさい! 好きでこんなことしているのではなくってよ!!」
「……ごめんなさい」
「ふん……」
◆
王家の舞踏会――。
その中で舞う艶やかな美貌を持つその女性――。
酒に酔った勢いで、制止を顧みず一心不乱に踊る彼女の姿はとても美しく、明るく、魅力的であった。
「あそこで舞っている女性は何者か?」
「はっ、どうやらチャダルヌーク家の御息女のようです」
彼女の魅力に取り込まれた男は数知れず。
それは、王家の第二王子とて例外ではなかった。
王家の私室に呼ばれた彼女は、酔いも薄れ、自分がしてしまったことに羞恥心を感じていたが、王子のかけてくれた言葉に、永遠に醒めやらぬ酔いを新たに覚えることとなった。
「――そなたは、美しい。あのような舞踊を見たのは人生で2度目だ。祭りで舞っていた町娘、その姿に心奪われた時からずっと、私はそなたを待っていたのかもしれない。どうか、心静かに聞いて欲しい。私の妻になってくれないか?」
顔はひどく紅潮していたに違いない。
失礼な応対をしてしまったかもしれない。
あまりにも頭に血がのぼる感覚に襲われて、この時のことはよく覚えていないが、彼女にとって人生の絶頂期であったことは確かであった。
そしてしばらくして、チャダルヌーク家に正式に婚姻の知らせが届くこととなった。
◆
「なぜチャダルヌーク家なんぞに……」
「あのようなぽっと出の一族……」
「大した武勲も持ち合わせていない家系のくせに……」
「目障りだ……」
「何か手を打たねば……」
妬みは時として呪いになる。
出る杭は打たれる宿命にある。
彼女はあまりにも素直すぎたのだ。
その宵闇の呪いにかけられて、街は一人の魔女を生み出すこととなった。
「絶対に許さない――。あたしから全てを奪ったこの女を――この血筋を――全部全部全部全部全部!! 滅ぼしてやる――」
彼女に魔の手が忍び寄っていた。
婚約に無邪気に浮かれた彼女には知る由はない。
◆
燃えさかる屋敷――。
誰もが寝静まった頃、その火の手は静かに近づいていた。
それは彼女が実家へ婚約の報告をしに行った夜のことだった。
屋敷が燃えているのを見た彼女は実家を飛び出し、屋敷へと向かった。
屋敷にたどり着いた彼女が目にしたもの――それは、崩れていくチャダルヌーク家の全てと、屋敷だった物の前に佇む黒いローブの女――。
手に炎を纏い、その冷徹な視線をこの世の全てに向けていた。
その視線が、やがて彼女に向けられると、女は高揚した笑みを浮かべた。
あの時、松脂を垂らしてきた時と同じように――。
「何をやったの!?」
「見てわかるでしょう? 燃やしたのよ」
「なぜ!! 家族でしょ!?」
「家族? こんな家、あたしにとってゴミでしかないわ。あたしを侮辱する全ての存在……この家も、父も、使用人たちも、そして――あなたも」
急激に燃えさかる火柱が女の背後で噴き上げる。
女の怒りを表すように、世界を呪うかのような眼差しをその瞳に宿して。
「お前だよ、ゴミ女……。燃やす、燃やしてやる、お前の全てを灰にして……このあたしがあたしのあたしだけの世界を創る――」
宵闇に燃えさかる紅蓮の炎。
その黒い目に赤と金の瞳を浮かべ、憎しみの黒い涙を流していた。
対するは、酒場の踊り子である。
多くの人から愛され、幸福の絶頂へと上り詰めた町娘。
燃えさかるその炎を前にして、哀悼の白い涙を流していた。
その場に落ちていた長い棒を拾い上げ、彼女は魔女を見据えた――。




