第15話 邪神スクラシスの慈愛
空が青く輝く初夏。
森よりも密度の高い樹海があった。緑の木々が鬱蒼と生い茂っている。
そんな日が差さない樹海に埋もれて大きな廃墟があった。
かつては繁栄していた街。今は木々の生命力に飲み込まれて、道路は寸断されて建物は崩れていた。
その廃墟の外れに小さなほこらがあった。世界で唯一残ったスクラシスを祀るほこらだった。
しかし、名前や存在すら忘れ去られているため、もう誰も訪れない。そのために入り口は長い年月によって木の根っこで覆われてしまっている。
ほこらの中には半分崩れた祭壇があり、その上に薄絹のローブを着た邪神スクラシスが膝を抱えて座っていた。
幼い顔は形骸化した憂いと風化した物悲しさが滓のように残るばかりで、細い眉と紫の瞳は寸分たりとも動かない。丸めた背中には伸び放題の銀髪が流れている。
大きな胸が隠れてしまい、拠り所を失った子供のように儚げに見えた。
無限と思えるほど長い時間が過ぎていく。
すると、ある時突然、入り口の根っこが音を立てた。
スクラシスが膝に突っ伏していた顔を上げて入り口を見る。
根っこを剣で切り裂いて一人の青年――アレクが入ってきた。
ただしアレクの顔は疲れ切っていた。着ているシャツやジャケットも薄汚れている。
スクラシスが亡霊のように生気のない目でアレクを見ていると、彼はよろよろと力ない足取りで祭壇前まで来る。
そして、ひざまずいて手を合わせ、疲れの滲む声を震わせた。
「女神スクラシス。どうか哀れな子羊をお救いください」
その言葉にスクラシスは飛び上がって驚いた。長いローブの裾がめくれて、大きな胸がたわわに揺れる。
「なっ!? こやつ、わらわの名を知っておるじゃと!?」
「はい、知ってます」
アレクが普通に応えると、スクラシスが紫の瞳が落ちんばかりに目を見開いた。
「しかも声が聞こえておる!? なんじゃこいつは!」
「勇者アレクです。聖騎士や救世主もマスターしてます」
その言葉に、スクラシスの顔に暗い影がよぎった。祭壇の上で仁王立ちしつつ呆れた吐息を吐く。
「なんじゃ。そういうことか」
「どうしたんです?」
「貴様は光の神シャイニーの選んだ救世主というわけじゃな。忌々しい」
「あなたを倒しに来たんじゃないです。ただもう、あなたしか頼れる人はいなくて」
アレクは手を合わせてまた祈る。
真摯な態度にスクラシスは、むうっと頬を膨らませる。腕を組んで祭壇の上から見下ろす。
「その救世主が名もなき闇の邪神にすがるとは何事じゃ?」
「違います、邪神じゃありません。あなたは夜を司る女神。夜は闇を呼ぶとともに、眠りの癒しを人々に与える。つかの間の休息をもたらす闇があってこそ、万物は光の下で元気に生きていけるんです。世界にはあなたも必要なんです。夜の慈愛と厳しさに満ちたあなた――女神スクラシスが」
切々と語るアレクの言葉を、スクラシスは目を丸くして呆然と聞いていた。
かつてはよく耳にした、自身を讃える懐かしい祝詞を思わせる。
崇敬の言葉が胸に染み込むにつれて、彼女の紫の瞳にじわっと涙が浮かんでいく。
邪神として世界から見捨てられた存在。
人々に恩寵を与えたこともあったのに、すべては仇で返された。
自身の生まれた意味すら消し去るかのような仕打ちの数々。
もう何もかも捨てて消えてしまえば楽になれるのはわかっていた。
それでも最後に残った小さなほこらで長い年月を過ごしていたのは「自分の存在だって間違いじゃなかったんだ」と肯定してくれる誰かを待ち続けていたからだったと、スクラシスは気付いた。
「ああ……よう言うてくれたのじゃ……っ」
スクラシスの大きな目から涙があふれた。小さな手の甲で拭っても拭っても涙は止まらない。
しまいには膝から崩れ落ちて子供のように泣きじゃくり始めた。
アレクは立ち上がると祭壇へ近寄った。
泣いて震える小さな肩を抱き寄せて、慰めるように頭や背中を撫でた。
スクラシスの泣き声が大きくなる。彼の胸に顔をうずめてますます泣いた。
一時間は過ぎた頃。
ようやくスクラシスの泣く声が静まってきた。体の震えも収まる。
そして深呼吸すると、最後に目を拭ってから顔を上げた。頬に涙の後が付いているものの、女神のような笑顔でアレクを見上げた。
「すまんの、つい取り乱してしもうたのじゃ」
「いえ、泣き顔も可愛いですよ」
「なっ! 何を言う、あまり神をからかうものではない。――して、わざわざわらわに会いに来たのであろう? 何が欲しいのじゃ?」
「あなたが欲しいです」
「な、な、なっ! 何を言うかっ! 不埒な奴めっ!」
小さな手でアレクの胸をポカポカと叩くが、離れようとはしない。
アレクもまた少女を逃がさないように抱きしめつつ尋ねる。
「だめですか?」
「そんな願いは聞けぬっ! ほかの願いにせよ!」
「それじゃあ、女神の加護が欲しいです」
「むっ……まともじゃな。それならよかろう」
「それと、問題解決のため相談に乗ってほしいです」
「むむっ……まあ、それも今ならしてやってもよいが……どうせ暇じゃし」
「あと膝枕して欲しい」
アレクが小さな肩を抱いて前のめりに頼み込む。
スクラシスは顔を真っ赤にして横を向く。
「か、顔が近いのじゃっ! いくつ願うつもりじゃ!」
「じゃあやっぱりスクラシスが欲しいです」
「ええい、それはダメじゃ!」
「膝枕は?」
スクラシスは赤くなった頬を膨らませるものの、祭壇へ腰かけるように座った。
細い太ももをぽんぽんと叩く。
「わらわを見つけた努力に免じて、してやるのじゃっ! こ、今回だけじゃからなっ!」
「よかったです」
アレクは微笑みながら隣に座って彼女の膝に頭を乗せた。静かに目を閉じる。スクラシスは戸惑いと羞恥で頬を真っ赤に染めていた。
しばらく静かな時間が流れた。
その間、アレクはただ子供のように眼を閉じていた。寝息すら聞こえる。
最初は取り乱していたスクラシスも、だんだんと落ち着きを取り戻し、次第に自分の膝で眠る不思議な青年アレクに好奇心のこもった視線で眺め始めた。
そして、アレクの茶髪を指で梳くように撫でつつ問いかける。
「アレクとやら」
「はい」
「どうやら疲れておるようじゃの? そなたも休みが欲しいのか?」
「そうですね。いささか疲れました」
「ふむ……随分と長旅をしたようじゃの?」
「何度やり直してもうまくいかなくて……」
「何度も……? どういうことなのじゃ?」
スクラシスは首を傾げた。腰まで届く銀髪がふわりと流れた。
興味をひかれた様子で、アレクの額に手を当てる。
記憶を読み取っていくにつれて、徐々に紫の目を丸くしていった。
「お、おぬし……何をしておるのじゃ!? 何回やり直したと言うのじゃっ!」
「ざっと……二万回ぐらいですかね……」
彼の言葉にスクラシスは幼い顔をひきつらせた。
「愚かな……人がやれることを超えておる……。なぜそこまでする? 被害が一番少ない未来を選べばよいではないか」
アレクは目を開けると、顔の位置をずらしてスクラシスを見上げた。
「それじゃ、ダメなんです。全員を助けたい。大人に利用された子供たちすべて。大人に騙されて苦しんだ子供たちすべて。そうじゃなきゃ、勇者や英雄になった意味がないんです。俺が望む平和な世界じゃない」
「すべてを助ける未来を目指すというのか……愚の骨頂じゃな」
ふっ、とスクラシスは目を細めて笑うと、彼の頭を愛おしく撫でた。
アレクがくすぐったそうに膝へ顔をこすりつける。
「でもそれが、俺ですから」
「……よかろう、わかったのじゃ。愚かなアレクを守護してやろうぞ。……ただ今だけはしばし、何もかも忘れて休むがよい」
「ありがとうございます、スクラシス。ありがとう」
小さな祠の中で膝枕されているアレクは、髪を撫でられて気持ち様さそうに目を閉じた。
何度もお礼を呟きながら。
スクラシスが見守るように見つめる中、無防備な笑みを浮かべつつまた寝息を立て始める。
いつの間にかアレクの顔に沈んでいた疲れは消えていた。
◇ ◇ ◇
暗闇に閉ざされた回廊に、五人の美少女が立ち尽くしていた。
スクラシスの話が終わると、邪竜姉妹やドミナは苦笑して顔を見合わせる。
しかし、ルベルの憤りだけはますます高ぶっていた。
肩で切り揃えた紅の髪を震わせて言う。
「なんなの、それ……なんでスクラシスにもみんなにも、あいつはそこまでできるんだ!? 私には何もしてくれなかったくせに! むしろ私から一番大切なものを奪っていったくせに!」
「ルベル……」
ノクティは顔をしかめて手を伸ばそうとしたが、ルベルの激しい怒りに触れなかった。
ルベルは髪を振り乱して叫ぶ。赤い瞳には涙が浮かんでいた。
「私はあいつを絶対に許さない! だって、だって――! あいつは私の父上を殺したんだ!」
「それはもう。おぬし――ルベル自身が薄々気が付いておるのではないのかの?」
スクラシスが慈しみを込めた声で諭すように言った。
はっと息をのむルベル。手が自然と一房の真っ白な髪を撫でていた。
彼女は整った顔を伏せて、全身を震わせる。
それから、ぽつりと呟く。
「……いいわ。わかった。確かめてくる」
「ん? なにをじゃ?」
スクラシスの問いかけには答えない。
ルベルは顔を上げずに背を向けると、出口に向かって駆け出した。
「あ、ちょっと!」
ノクティが手を伸ばすが届かない。あっという間にゲートの向こうへと消え去った。
背中を見送っていたケイが、ぽつっと呟く。
「行っちゃいましたね……」
「少し心配なのじゃ」
「あらまあ、アレクくんがどうするか楽しみね」
「そうじゃの」
「お手並み拝見させてもらうしかないわね」
「あたしも楽しみです」
闇に包まれた回廊の中、四人の美少女は顔を見合わせて、ふふっと笑いあった。
そしてドミナが続き、邪竜姉妹がゲートの向こうに消えた。
最後、一人残ったスクラシスは、細い首や小さな肩を回しながら盛大な溜息を吐いた。
「うまくいったようじゃな……しかし、疲れたのぅ。――こんな面倒なことを毎回しているアレクは、信じられん奴なのじゃ。それでこそ我が夫、と言えるかもしれんがの」
ふふっとスクラシスは楽しそうにほほ笑んで、ゲートの向こうに帰っていった。
ここまで三章です。明日は四章を3~4話に分けてアップします。




