レンズの底の密室
十月に入り、校庭を吹き抜ける風は明らかな冷たさを帯び始めていた。
放課後の旧校舎。ガラスが割れかけた非常口の窓から差し込む夕光は、朱色というよりも紫色に近い、重く湿った濃影を廊下に落としている。
一ノ瀬凛は、いつものように踊り場のパイプ椅子へ向かって歩を進めていた。首から下げた一眼レフのストラップが、歩幅に合わせて胸元で重たく揺れる。
「遅い。今日は三十分も待たされた」
踊り場に着くやいなや、低く不機嫌な声が響いた。
フェンスに背を預けた冴島凪は、制服のポケットに両手を突っ込んだまま、冷ややかな視線を凛に向けた。口元にはいつもの白い駄菓子。けれど、それを噛み砕く音はいつもより遥かに荒々しく、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「ごめん。写真部の顧問に呼ばれてて……今度ある地域のコンクールに作品を出さないかって」
「ふーん」
凪は鼻で笑うと、壁から背を離してゆっくりと歩み寄ってきた。
「で? なんて答えたの。『はい、喜んで』って、あの気持ち悪い笑顔で言ってきたわけ?」
「……ううん。『少し考えさせてください』って言った」
「なんで即答で断らないの?」
凪の手が伸び、凛の制服の襟ぐりを強引に掴み寄せた。布地が引きちぎれそうなほど強く引かれ、二人の鼻先が触れ合う距離まで引き寄せられる。凪の呼吸に乗って、安っぽいイチゴの甘い匂いと、冷えた空気が凛の肌に吹きかかった。
「私だけを撮るって言ったじゃん。凛のカメラは、私だけのものなんじゃないの?」
「……っ、コンクリートの風景画とか、そういう出品課題だよ。凪を出すわけじゃない」
「そういう問題じゃないんだよ!」
凪の叫びにも似た声が、誰もいない旧校舎の吹き抜けに木霊した。
凪の瞳が、激しい感情の渦に揺れている。普段の強がりや生意気な態度の裏側に潜む、あまりにも剥き出しで脆い執着。その熱量に圧されながらも、凛の胸の奥には歪んだ充足感が広がっていくのを止められなかった。
(この人は、私にこんなにも執着している)
クラスでの凛は、誰にとっても「都合のいい優等生」に過ぎない。替わりのきく存在。優秀で、波風を立てず、笑顔でノートを貸してくれる便利な背景。
けれど、目の前にいる凪にとって、自分は世界で唯一の存在なのだ。自分の一挙一動で感情を激しく揺さぶり、怒り、苦しみ、自分を縛り付けようとする。
凛は逃げ出すどころか、その握りしめられた手首に自分の手を重ねた。骨ばった凪の手は驚くほど冷たく、けれど凛の手のひらの熱を必死に吸い取ろうとするように震えていた。
「……分かってるよ、凪」
凛はゆっくりと息を吐き、静かで冷ややかな声で囁いた。
「私の写真は、もう凪以外を撮っても意味がないの。他の風景を撮っても、誰もいない街角を撮っても、私の頭の中には凪の顔しか浮かばない」
「……本当?」
「本当だよ。コンクリートの壁を撮っても、夕暮れの空を撮っても、そのどこかに凪の影を探してる。……私をこんな風にしたのは、凪でしょ」
凛の言葉に、凪の指先からふっと力が抜けた。けれど手は離されないまま、互いの指が複雑に絡み合う。
「……じゃあ、見せてよ」
凪は消え入りそうな声で呟き、凛の胸元にあるカメラを指差した。
「今ここで、私だけを撮って。誰にも見せない、私の顔を」
「……うん」
凛はカメラを持ち上げ、ファインダーを覗き込んだ。
フォーカスリングを回す。レンズの向こうで、夕闇に溶け込みそうな凪の輪郭が鮮明に立ち現れる。乱れた髪、不機嫌そうに歪んだ薄い唇、そして何よりも――凛のことだけを、激しい嫉妬と依存の混ざった瞳で見つめ返す茶色い虹彩。
カシャ
機械的なシャッター音が、静寂を切り裂く。
「もう一回」
カシャ
「……凛、もっと近くで」
カシャ、カシャ、カシャ
連続して響くシャッター音は、二人の鼓動のようだった。踊り場という狭い世界の中で、二人はカメラという窓口を通じて深く、深く交わり合っていく。ファインダー越しに見つめ合う視線は、どんな言葉よりも濃密で、逃げ場のない密室を作り上げていた。
「……ねえ、凛」
撮影が一段落したとき、凪がぽつりと呟いた。彼女の額が、凛の肩に弱々しく預けられる。
「私ね、たまに怖くなるよ」
「……何が?」
「凛が、いつかあの完璧な笑顔のまま、私の手を振り払ってどこか遠くへ行っちゃうんじゃないかって。クラスの『いい子』に戻って、私のことなんて忘れて、普通に綺麗な世界で生きていくんじゃないかって」
肩にかかる凪の頭の重み。そこから伝わってくる微かな震え。
凛は初めて知った。自分を脅かし、縛り付けていると思っていた凪自身が、実は誰よりも凛を失うことを恐れて怯えているのだということを。
なぜ自分なのか。なぜそこまで恐れるのか。その根底にある「理由」の深淵に、凛はまだ到達していない。けれど、その恐怖を埋めてあげられるのは自分しかいないのだという優越感が、凛の胸を甘く痺れさせた。
凛は空いた方の腕を伸ばし、凪の細い背中を優しく抱きしめた。制服越しに伝わる身体の薄さに、胸が締め付けられる。
「どこにも行かないよ」
凛は凪の髪に顔をうずめ、安っぽいイチゴの香りを深く吸い込んだ。
「私はここにいる。凪が私を必要としてくれるなら、私はずっと、凪だけのカメラマンでいるから」
茜色が完全に消え去り、濃紺の闇が踊り場を覆い尽くしていく。
互いの体温だけを頼りに身を寄せ合う二人の姿は、どこからどう見ても友情などという生ぬるい言葉では括れない、甘く危険な共犯関係そのものだった。




