歪んだ鏡の熱
エピソードごとの題名を考えるの難しいですね
教室の空気は、いつも決まった温度で満たされていた。高すぎず、低すぎず、誰一人として不快感を覚えないように巧みに調整されたエアコンの風。
「一ノ瀬さん、今日の帰りにみんなでアイス食べに行かない? 駅からすぐのところに新しいお店ができたんだって」
昼休み、お弁当の蓋を閉めたタイミングで、向かいの席の女子生徒が身を乗り出してきた。周囲の数人も期待を込めた眼差しで凛を見つめている。
凛は一瞬の遅延もなく、心の中で完璧な回答を呼び出した。
「わあ、行きたいな。でもごめんね、今日は写真部の提出課題の締め切りがあって……また今度、絶対に誘って」
「そっか、残念! 写真部って結構忙しいんだね。一ノ瀬さん、無理しないでね」
「ありがとう。気をつけて行ってきてね」
口角を絶妙な角度まで上げ、目元を和らげ、声のトーンを半音高くする。相手が望む通りの「思いやりのある優等生」を演じ切ると、女子生徒たちは満足そうに笑い、別の話題へと移っていった。
完璧な対応。何の破綻もない、完璧な演劇。
だが、凛の手のひらには、自分でも気づかないうちにうっすらと嫌な汗が滲んでいた。
教室の片隅、窓際の席を見やる。冴島凪の席は空だった。
ここ最近、凪は教室にいる時間よりも、保健室や旧校舎にいる時間の方が長くなっていた。周囲のクラスメイトたちも、最初は「また休んでる」「陸上部をやめてから変だよね」と噂していたが、今では空気のように凪の不在を受け入れている。
存在しているのに、誰も見ていない。
(……私だけが見てる)
胸の奥で、小さく黒い感情が脈打つ。それは優越感のようでもあり、底知れない恐怖のようでもあった。凛はポケットの中に手を入れると、小さなデジカメの金属の冷たさを確かめるように強く握りしめた。
放課後を知らせるチャイムが鳴り響くと同時に、凛は最小限の動作で荷物を鞄に詰め込んだ。
「一ノ瀬さん、お疲れ様。写真部がんばってね」
「うん、ありがとう。お疲れ様」
挨拶を交わし、教室の扉を開ける。廊下を渡り、新校舎から旧校舎へと続く連絡通路を渡るにつれて、校内の喧騒が薄皮を剥ぐように遠のいていった。
旧校舎の非常階段は、今日も埃っぽく静まり返っている。鉄の重い扉を推し開けると、すっと冷えた秋の風が凛の頬を撫でた。
「遅かったね、凛」
踊り場に置かれたパイプ椅子に腰掛け、凪が振り返った。膝の上にはスケッチブック、口元にはいつもの白い駄菓子。
「ごめん。教室で少し話しかけられてて」
「『いい子ちゃん』の仕事?」
「……そういう言い方、しないで」
凛が小さく眉をひそめると、凪は満足そうに口元を歪めた。
「だって本当のことじゃん。凛ってさ、教室にいるときは本当につまんない顔してる。誰にでも同じ顔して、同じ声で笑って。まるで精巧に作られた人形みたい」
「……凪に何がわかるの」
凛は歩み寄り、凪の目の前で足を止めた。上から見下ろす形になっても、凪の瞳には恐れも警戒もなかった。ただ、深く澄んだ茶色い虹彩が、凛の姿をじっと映し出している。
「分かるよ。だって、私がそうさせてるんでしょ?」
凪は口から駄菓子を外すと、パイプ椅子から立ち上がった。身長差のせいで、今度は凪が少し見上げる形になる。
「私といるときだけ、凛はそんな不機嫌な顔をする。嫌そうな目をして、唇を噛み締めて……生きてる人の顔になる。凛のその本当の顔、私しか知らないんだよね」
「……っ」
言葉が詰まった。
否定したかった。自分は別に、凪のために不機嫌になっているわけではないと。だが、凪の言う通りだった。クラスでどれだけ完璧な笑顔を振りまいても、胸の奥は冷え切っていた。けれど、凪の前に立ち、煽られ、踏み込まれると、全身の血が激しく巡り出すのを感じるのだ。
「私ね、凛がクラスで笑ってるのを見るたびに、すごくイライラするの」
凪が手を伸ばした。冷たい指先が凛の首筋に触れ、そのまま顎へと滑り落ちる。強い力で顎をすくい上げられ、視線が強制的に交差させられた。
「あの完璧な仮面、私が割ってあげたのに。私だけが、凛の本当の姿を引き出せるのに。なんでまだ、あんな奴らに嘘の笑顔を見せてるの?」
「それは……私には、あそこでの立場があるから……」
「立場? そんなくだらないもののために、自分を殺してるの?」
凪の声には、明らかな執着と、激しい拒絶が混ざり合っていた。
それは単なる友人同士の会話を超えていた。まるで、凛という存在そのものを自分だけの所有物として定義しようとするかのような、重く歪んだ熱量。
なぜ、凪はここまで自分に執着するのか。
なぜ、クラスで孤立している少女が、誰にも心を開かない少女が、自分に対してだけこれほど剥き出しの感情をぶつけてくるのか。
「……凪は、どうして私なの?」
凛は自分の声を震わせないようにしながら、問いかけた。
「私じゃなくてもいいはずでしょ。私を暴いて、面白がるだけなら……他の誰かでも」
「他の誰かじゃダメなんだよ」
凪は即座に言いのけた。迷いのない、射抜くような瞳。
「凛じゃなきゃダメなの。凛が……あの完璧な一ノ瀬凛が、私の前だけで崩れるから意味があるんじゃん」
凪の手が、凛の制服の襟元をギュッと掴んだ。布地が引っ張られ、二人の距離が息ができるかどうかの限界まで縮まる。
「逃がさないよ、凛。あんたのその冷たい仮面を剥がせるのは、私だけなんだから」
耳元で囁かれた声は、甘いイチゴの香りと共に凛の鼓膜を震わせた。
恐ろしい、と思った。このまま凪の執着に呑み込まれれば、自分がこれまで築き上げてきた「一ノ瀬凛」という平穏な日常は跡形もなく壊れてしまうだろう。
けれど、同時に胸の奥で爆発するような歓喜が弾けた。
誰も自分を見てくれていなかった。親も、教師も、友達も、誰もが「演じられた一ノ瀬凛」だけを愛し、本当の自分など存在しないかのように扱ってきた。
だが、目の前にいるこの少女だけは、暴き、壊し、自分という存在の根底を掴んで離そうとしない。
凛は震える手でカメラを持ち上げ、超至近距離から凪の顔へとレンズを向けた。ファインダー越しではなく、肉眼で凪の瞳を見つめ返しながら、シャッターを押す。
カシャ。
至近距離で焚かれた機械的な音が、薄暗い踊り場に寂しく響き渡った。
「……逃げないよ」
凛は低く、本来の自分の声で呟いた。
「凪が私を壊すなら、私も凪の全部を撮る。誰にも見せない凪を、私が全部レンズの底に閉じ込める」
凪は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに満足そうに、狂おしげに笑った。
「……やっぱり、凛は最高だね」
西日が沈み、旧校舎は濃い群青色の闇に包まれていく。
互いに互いを縛り付け、依存し合い、深みへと堕ちていく足音。二人はまだ、この執着の底にどんな真実が眠っているのかを知らないまま、互いの熱の中に閉じこもっていた。




