熱を帯びる輪郭
放課後の旧校舎は、夕暮れが近づくにつれて急激に色を変えていく。西日がガラスの割れた窓から斜めに差し込み、廊下に溜まった埃の粒子を金色に光らせていた。
一ノ瀬凛は、重い鉄の扉を開けて屋上へと出た。風が強く、ブレザーの裾をパタパタと揺らす。フェンスの傍ら、いつもの位置には冴島凪が腰掛けていた。膝の上にノートを広げ、何やらペンを動かしている。
「凪」
声をかけると、凪はゆっくりと顔を上げた。口元には、いつもの甘いイチゴ味の駄菓子が咥えられている。
「遅いよ、凛。待ちくたびれて、ノートに妙な落書き増えちゃったじゃん」
「クラスの委員決めがあったの。頼まれちゃって断れなくて」
凛が吐息混じりに言うと、凪は眉をひそめ、不機嫌そうに駄菓子をボリボリと噛み砕いた。安っぽいイチゴの香りが、秋の冷たい風に乗って鼻腔をくすぐる。
「また『いい子ちゃん』発揮したわけ? 本当、懲りないよね。断ればいいのに」
「そんなに簡単に割り切れたら苦労しないよ。……凪みたいに、何でも捨てられるわけじゃないんだから」
言った瞬間、ハッとして息を飲んだ。
少し棘のある言い方になってしまった。凪が陸上部をやめ、クラスから浮いた存在になっていることを、揶揄するようなニュアンスが含まれてしまった気がしたのだ。凛は気まずさに胸を痛め、慌てて視線を落とした。
「……ごめん。今の、変な意味じゃなくて」
「いいよ、別に」
凪は気に留めた風もなく、ひらひらと手を振った。そして、ノートを閉じると、膝を抱えるようにして空を見上げた。
「実際、捨てたしね。陸上も、周りからの期待もさ」
その声はどこか遠く、乾いていた。凛はそっと歩み寄り、凪の隣に腰を下ろした。コンクリートの冷たさがスカート越しに直に伝わってくる。
「……陸上、なんで辞めたのか気になってるでしょ」
凪がぽつりと呟いた。凛は息を止め、凪の横顔を見つめた。夕日のオレンジ色が、彼女の横顔を鮮やかに縁取っている。
「……気にならないって言ったら嘘になる。でも、話したくないなら無理に聞くつもりはないよ」
「話したくないっていうか……大した理由じゃないんだよね」
凪は自嘲気味に口角を上げた。
「たださ、期待されるのが急に気持ち悪くなったの。走るのが好きだったはずなのに、いつの間にか周りの都合で走らされてるみたいで。……だから、全部投げ出した。それだけ」
淡々と語る凪の声。けれど、その瞳の奥には、まだ語られていない重い影が渦巻いているのを凛は見逃さなかった。言葉の端々に隠された、触れてはいけない傷の気配。
単なる我が儘や気まぐれで辞めたのではない、もっと切実な何かが彼女の中に眠っている。しかし、今の二人の距離感では、それ以上踏み込むことを凪の雰囲気が拒んでいた。
「凛はどう? 『いい子』でいるの、疲れないの?」
凪が急に視線を凛に向けた。茶色い瞳が、夕焼けの赤を強く反射して輝いている。
「……疲れるよ」
凛は自分の指先を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「でも、怖いの。期待に応えられなくなったら、誰も私を見てくれなくなるんじゃないかって。一ノ瀬凛という存在の価値が、なくなっちゃうんじゃないかって。誰かに必要とされていないと、自分が透明になっちゃいそうで……」
「バカみたい」
凪の短い一言が、静かな屋上に低く響いた。
「そんなことでなくなる価値なんて、最初から偽物じゃん。……現に私は、そんな『いい子』の凛なんてどうでもいいと思ってるよ」
凪が手を伸ばし、凛の頬にそっと触れた。
カサついた指先から伝わるダイレクトな体温。冷え切った自分の肌に、凪の指の熱がじんわりと染み込んでいく。心臓が痛いほど跳ね上がり、呼吸が浅くなるのを凛は止められなかった。逃げることもできず、ただ凪の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「私が好きなのは、そういう風に困ったり、嫉妬したり、冷めた目で見つめてくる……生身の凛だよ」
『好き』という言葉が、激しい熱を持って凛の耳奥に突き刺さった。
それが友人としての愛着なのか、それとももっと歪で独占的な何かなのか、今の凛には判別がつかない。ただ、その指先が触れている場所から、全身へと熱が広がっていくのを感じていた。
「……ずるいよ、凪は」
凛は震える声で呟き、凪の手首をそっと握り返した。骨ばった細い手首。その脈拍が、自分の鼓動と重なっていくような錯覚を覚える。
「そんな風に言われたら、もう戻れなくなる」
「戻らなくていいよ」
凪は満足そうに微笑むと、握られた手を解くことなく、ゆっくりと自分の額を凛の肩に預けてきた。
頭髪の柔らかい感触と、首筋にかかる暖かい吐息。重みと熱が、二人の境界線を少しずつ曖昧にしていく。
「私だけを見ててよ、凛。クラスの奴らになんて、本当のあんたを一枚も撮らせないで」
「……うん」
カメラを持つ手が、微かに震えていた。
凪の過去の真実に触れるのは、まだずっと先のこと。今はただ、この放課後の密室で生み出される、甘く危険な熱の中に浸っていたいと凛は願ってしまうのだった。
茜色から群青色へと移り変わる空の下、二人の影はひとつに重なったまま、静かに沈んでいった。




