共犯の微熱
放課後、校内に漂う湿気はどこか重たく、秋の始まり特有の肌にまとわりつくような不快感を伴っていた。
一ノ瀬凛は、終礼が終わると同時に素早く荷物をまとめた。クラスメイトからの「一ノ瀬さん、この後ノート見せ合わない?」という声掛けに、一瞬で『優等生』の笑みを貼り付ける。
「ごめんなさい、今日はこれから写真部の用事があって。明日の朝、一番に渡すね」
「そっか、残念! じゃあまた明日ね」
角を曲がり、クラスメイトの視線が完全に途切れた瞬間、凛の口元から一切の感情が滑り落ちた。深呼吸を一つすると、胸の奥に溜まった淀んだ空気がわずかに排出される気がする。
足は自然と、旧校舎へと向かっていた。階段を一つ上るごとに、自分が社会的な「いい生徒」から脱皮し、ただの「一ノ瀬凛」に戻っていくような錯覚に陥る。
屋上に続く扉を開けると、そこには案の定、冴島凪が手すりに寄りかかって立っていた。凪は風に髪を遊ばせながら、口元にいつもの白い駄菓子を咥えている。
「遅かったね、凛」
「クラスの人に話しかけられてたから」
凛が近付きながら答えると、凪はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふーん。相変わらず大人気なんだ」
「別に、好かれたくてやってるわけじゃないよ」
「知ってる。でも、そういう顔して嘘つくの、見ててあんまり面白くない」
凪はそう言って、咥えていた駄菓子をぽんと口の中に放り込み、ボリボリと噛み砕いた。甘いイチゴの香りが風に乗って流れてくる。
凛は鞄からカメラを取り出し、首にかけた。レンズキャップを外す手の動作は、すっかり習慣化している。
「凪、ちょっと動かないで」
ファインダーを覗き込み、フォーカスリングを回す。レンズの向こうで、凪の黒目がちな瞳がくっきりと像を結ぶ。夕暮れ時の光線が、彼女の頬の薄い産毛や、少し傷んだ髪の毛先を黄金色に縁取っていた。
カシャ、カシャと、乾いたシャッター音が静かな空間に響く。
「……ねえ、凛」
「ん?」
ファインダー越しに凪の唇が動くのが見えた。
「凛にとって、私は何?」
不意打ちのような質問に、凛はシャッターを切る指を止めた。カメラを少し下げ、肉眼で凪を見つめ返す。
「なに、急に」
「ううん。ただ、凛が私のこと撮るときって、すごく集中してるなって思って。クラスにいるときの適当な目と違ってさ。私は凛のカメラの被写体なだけ? それとも……」
そこから先の言葉を、凪は意図的に飲み込んだように見えた。少しだけ視線を泳がせ、恥ずかしさを誤魔化すように制服のポケットに手を突っ込む。
凛は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「被写体なだけ、なわけないでしょ」
静かに、けれどはっきりと告げる。言葉にするのが恐ろしいほど重い感情が、自分の内側で渦巻いていることを凛は自覚していた。
「凪といるときの自分が、一番息がしやすいの。クラスで笑ってる私なんて、全部作り物だし、誰かに見せるための演技。でも、凪に見せる顔は……凪の前にいる私は、嘘じゃない」
歩み寄り、二人の距離が詰まる。
凛はそっと手を伸ばし、凪の制服の袖口を指先でつまんだ。柔らかい生地越しに、凪の腕の体温が伝わってくる。
「私は、凪のことがもっと知りたい。陸上部をやめた理由も、ここでいつも一人で何を見てるのかも。……私にだけ、教えてほしい」
凛の言葉に、凪は驚いたように目を丸くした。普段の生意気な余裕は消え、ただの同年代の少女らしい、危うく不器用な表情が浮かび上がる。
凪は小さく吐息を漏らすと、凛の手を上から包み込むように握り返してきた。凪の手は少し冷たくて、けれど握る力は力強かった。
「……身勝手だなあ、凛は」
「凪に言われたくない」
「あはは、確かに」
凪は短く笑うと、握った手に少しだけ力を込めた。
「じゃあ、教え合いっこにしよ。私のことも話すから、凛のことも全部教えて。誰にも見せない、汚いところも、隠してることも」
「……いいよ」
二人の間で結ばれた、密やかで歪な約束。それは友情と呼ぶにはあまりに重く、依存と呼ぶにはあまりに綺麗な、ふたりだけの共犯関係の始まりだった。
茜色に染まる屋上で、二人の影がコンクリートの上に長く伸び、ひとつに重なり合っていた。




