綻びの引き金
中間テスト最終日の放課後、校舎は開放感に満ちた熱気に包まれていた。
「一ノ瀬さん、テストもおわったし、みんなでカラオケ行かない? 打ち上げ!」
いつもの女子生徒たちに囲まれ、凛はいつものように完璧な角度で微笑んだ。
「ありがとう。すごく行きたいんだけど……今日はちょっと用事があって」
「えー、また〜? 最近一ノ瀬さん、放課後いつも忙しそうだよね」
一人の生徒が、何気なく言った。悪意のない、ただの疑問。けれど、その言葉は針のように凛の胸に刺さった。
「そうかな? ごめんね、次は絶対行くから」
「うん、約束だよ!」
事なきを得て解放されたものの、廊下を歩く凛の背中には不快な汗が滲んでいた。これまで完璧に演じ分けていたはずの「優等生の一ノ瀬凛」と、「旧校舎で凪と過ごす一ノ瀬凛」。その二つの世界の境界線が、少しずつ踏み荒らされ、破綻し始めている感覚。
(隠し通さなきゃ……この場所だけは)
凛は足早に旧校舎への連絡通路を渡った。新校舎の明るい喧騒が遠のき、古い木造の匂いと冷ややかな空気が満ちてくる。この薄暗い空間だけが、今の自分にとって唯一、呼吸のできる場所だった。
非常階段を上り、鉄の扉を押す。屋上に出ると、秋の深まりを感じさせる冷たい風が凛の頬を叩いた。
「……遅かったね」
フェンスに背を預け、コンクリートの上に座り込んでいた凪が顔を上げた。口元にはいつもの白い駄菓子。けれど、その瞳はいつも以上に低く、冷たく澄んでいた。
「ごめん。クラスの人に誘われてて、断るのに少し時間がかかっちゃって」
「また『いい子ちゃん』やってたんだ」
凪は立ち上がると、ゆっくりと歩み寄ってきた。制服のポケットに手を突っ込んだまま、凛の顔をじっと覗き込む。
「凛さ、顔に出ててるよ」
「……え?」
「焦ってる顔。クラスの奴らに『変だ』って思われるのがそんなに怖いの? 完璧な一ノ瀬凛でいられなくなるのが、そんなに恐ろしいの?」
「そんなこと……」
言いかけて、凛は言葉を飲み込んだ。嘘を吐いても、凪にはすべて見透かされる。
凪はポケットから手を取り出すと、冷えた指先で凛の頬にそっと触れた。かさついた皮膚の感触。凛の身体が跳ね、息が止まる。
「嘘つけない癖に。……でもさ、私、嬉しいよ」
「……なにが?」
「凛の世界が、少しずつ壊れていってるから」
凪の唇が、見たこともないほど歪で美しく歪んだ。瞳の奥に宿るのは、底知れない執着と独占欲。
「みんなの前で見せる完璧な笑顔が崩れて、凛がどんどん私のところにしか居場所がなくなっていく。クラスの奴らには見せない焦りも、困った顔も、全部私だけが見てる。……凛の本当の居場所は、もうここでしょ?」
凛の喉の奥がヒリヒリと痛んだ。
恐ろしい言葉だった。自分が大切に守ってきた平穏な日常を否定され、引きずり降ろされようとしている。けれど、その指先から伝わる体温と、耳元で囁かれる甘い狂気に、胸の奥が熱く痺れていくのを止められない。
「……そうだよ」
凛は自ら逃げ道を取り払うように、低く澄んだ声で応えた。
「私の本当の顔を知ってるのは、凪だけ。……他の誰も、私を分かってなんてくれない」
凛は首から下げた一眼レフを持ち上げ、レンズを凪に向けた。ファインダー越しに覗く凪は、夕暮れの茜色と群青色の境目に立ち、どこか儚げで、けれど凛を完全に縛り付ける絶対的な存在として結像していた。
カシャ
乾いたシャッター音が響き、一枚の写真がカメラに記録される。
明日からは夏休み前の短縮授業が始まり、季節は急速に夏へと加速していく。クラスという安全な箱庭から切り離され、二人だけの濃厚で熱い季節が始まるのだ。
凪がなぜ自分にここまで執着するのか、その過去の真相をまだ知らないまま――凛は凪の手を強く握り返し、戻れない深淵へと自ら踏み出していった




