夏に予感と空白
短縮授業が終わり、校内に残る生徒の数が目に見えて減り始めた七月半ば。蝉の鳴き声が、グラウンドの砂埃とともに校舎へまとわりついていた。
一ノ瀬凛は、終礼が終わるやいなや鞄を肩にかけた。
「一ノ瀬さん、これから部活? 今日めちゃくちゃ暑いよね」
「うん、そうだね。熱中症には気をつけて帰ってね」
適当な返答を済ませ、廊下へと踏み出す。すれ違う生徒たちの「じゃあ、夏休みにね」「海行こうよ」といった会話が、耳の表面を滑り落ちていった。
これまでの凛にとって、夏休みとは「優等生」としての役割から解放される猶予期間であり、同時に実家というもう一つの閉塞空間に閉じ込められる退屈な日々でしかなかった。けれど、今年の夏は違っていた。
旧校舎へ続く連絡通路を渡ると、アスファルトと古い木造の匂いが混ざり合った熱気が凛の身体を包み込んだ。新校舎の冷房で冷え切っていた肌に、不快なはずの熱気がじんわりと染み込んでいく。
非常階段を上り、重い鉄の扉を開ける。
風が吹き抜ける屋上には、いつものように冴島凪がいた。フェンスの影になり、わずかにできた日陰の中に座り込んでいる。汗で額に張り付いた前髪と、いつもの白い駄菓子。
「……暑いね」
凛が声をかけると、凪はゆっくりと顔を上げた。茶色い瞳が、真夏の強い日差しを受けて透き通った琥珀色に輝いている。
「遅い。干からびるかと思った」
「日陰にいればいいのに。……それ、また食べてるの? 暑いのに口の中パサパサにならない?」
「これ食べないと落ち着かないの」
凪はボリボリと駄菓子を噛み砕くと、ポケットから冷えたペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、凛の頬に押し当てた。
「ひやっ……」
「冷たいでしょ。あげる」
「……ありがとう」
凛はペットボトルを受け取り、キャップを開けて口に含んだ。冷たい液体が喉を通り、身体の奥へと染み渡っていく。その様子を、凪は満足そうにじっと見つめていた。
「ねえ、凛」
「ん?」
「夏休み、どうすんの」
突然の問いかけに、凛は手を止めた。
「どうするって……部活はあるけど、毎日じゃないし。基本は家にいると思う」
「ふーん」
凪はつまらなさそうに膝を抱え直した。
「家にいてもつまんないでしょ。親の顔色伺って、また『いい子』やってんの?」
刺すような言葉。けれど、そこには拒絶ではなく、どこか自分を引き留めようとする甘い焦燥が含まれていた。凛はペットボトルを固く握りしめる。
「つまんないよ。……凪は? 夏休み、どうするの」
「何も。誰もいない家に一人でいて、クーラーの風に当たって、夕方になったらここに来るだけ」
凪の家は、両親が共働きで不在がちだという話を以前聞いたことがあった。陸上をやめてから、彼女には学校にも家にも、どこにも居場所がないのだ。
「誰もいないなら……」
凛は言葉を詰まらせた。自分の口から出ようとしている言葉の重さに、急に躊躇いが生まれた。
「なに?」
凪が顔を近づけてくる。汗の匂いと、甘いイチゴの香りが混ざり合った独特の熱気。
「……夏休み、誰もいないなら、私もここに来ようかなって」
「……部活もない日に?」
「うん。写真部の課題って言えば、親も何も言わないから」
静寂が落ちた。蝉の声だけが、二人を囲む世界で激しく鳴き立てている。
凪はしばらく凛の顔を無言で見つめていたが、やがてぷっと吹き出すように笑った。
「なによ」
「ううん。凛ってさ、たまにすごく思い切ったこと言うよね。そういうとこ、本当好き」
『好き』という言葉が、真夏の熱気とともに凛の耳奥に滑り込んでくる。胸の奥が不自然に跳ね上がり、凛は誤魔化すように首から下げたカメラを構えた。
「……動かないで」
ファインダーを覗く。レンズの向こう、眩しい日差しの中で、汗ばんだ肌と少し乱れた髪をした凪が、挑戦的な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
カシャ
乾いたシャッター音が、夏の始まりを告げるように屋上に響き渡った。
液晶画面に定着した写真は、今まで撮ったどんな写真よりも色鮮やかで、そしてどこか壊れそうなほど危うい熱を帯びていた。
二人だけの、誰も踏み込めない長くて暑い夏が、静かに幕を開けようとしていた。




