白昼夢の標本
夏休みの校舎は、まるで巨大な熱帯魚の飼育ケースのようだった。
眩しい日差しが照りつけるグラウンドからは運動部の掛け声が遠く聞こえていたが、旧校舎の周辺だけは時間が止まったかのように静まり返っていた。湿った土の匂いと、アスファルトから立ち昇る熱気が、廊下の空気を重く沈ませている。
一ノ瀬凛は、首に掛けたカメラのストラップを固く握りしめながら、静まり返った階段を上がっていった。
「写真部の撮影課題で、夏休み中も何度か校内の撮影に行くから」
両親にはそう言い残してきた。厳しい父親も、世間体を気にする母親も、「部活動の提出物」という名目を出せばそれ以上追求してくることはなかった。嘘をつく罪悪感は、とうの昔に摩耗している。
重い鉄の扉を開けると、強烈な光と蝉時雨が同時に凛を襲った。
「……遅い、凛」
いつもの陰の中に、冴島凪が座っていた。白い薄手のTシャツの首元からは華奢な鎖骨が覗き、汗で濡れた前髪が額に張り付いている。足元には、氷の溶けかかった麦茶のペットボトルが転がっていた。
「ごめん。バスが少し遅れて」
「ふーん」
凪は立ち上がると、のそりと凛の方へ歩み寄ってきた。影から一歩踏み出すと、真夏の強い日差しが彼女の白い肌を眩しく照らし出す。凪は気だるそうに凛の肩に手を置くと、自分の身を預けるように額を凛の首筋に押し当ててきた。
「ひやっ……凪、冷たい」
「凛が温かいの。……外、溶けそうなくらい暑いね」
首筋に触れる凪の髪の感触と、微かに感じる汗の匂い。そして、口元から漂ういつもの安っぽいイチゴの香り。二人の体温が混ざり合い、皮膚の境界線が蒸発していくような錯覚に陥る。
凛は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、そっと凪の腰に手を回した。薄いTシャツ越しに伝わる凪の体温は、この灼熱の太陽よりもずっと熱く、凛の理性を焼き尽くしそうだった。
「ねえ、凛。撮影課題って、嘘なんでしょ?」
耳元で囁かれた低く掠れた声。凛は小さく呼吸を乱した。
「……うん。嘘」
「親にも嘘ついてまで、私に会いに来たんだ」
「……凪が、ここにいるから」
凪はくすくすと嬉しそうに笑うと、凛の体を少し離し、その強い茶色い瞳でまっすぐに凛を見つめてきた。太陽の光を反射して、彼女の瞳の奥に小さな虹が生まれている。
「じゃあ、撮りなよ。私を撮るために来たんでしょ」
凪はフェンスに背を預け、両腕を大きく広げた。白日の下に晒された彼女の姿は、あまりにも無防備で、そして圧倒的に美しかった。
凛は震える手でカメラを構え、ファインダーを覗く。
レンズの向こうで、夏の光と影が凪の輪郭を滑らかに縁取っていた。浮き出た鎖骨、薄い唇、汗に濡れて肌に張り付く黒髪、そして凛だけを執着と愛着の混ざった目で見つめる瞳。
カシャ
機械音が響くたび、凪という存在が凛のカメラの中に、そして心の中に深く刻みつけられていく。
「……ねえ、凛。もっと近くで撮ってよ」
凪が手招きする。凛が一歩踏み出すと、凪は凛の首に手を回し、カメラごと自分の方へと引き寄せた。至近距離で重なる視線。息ができるかどうかの距離で、レンズのピントが合わなくなる。
「ピント……合わないよ」
「合わなくていいって言ったじゃん。……今の私、凛にどう見えてる?」
「……壊れそう」
ぽつりと漏れ出た言葉に、凪は目を見開いたが、すぐに満足そうに目を細めた。
「壊してよ、凛が。他の誰にも壊されたくないから」
狂おしいほどの依存。けれど凛は、その言葉に恐怖を感じるどころか、底知れない快感を覚えていた。この真夏の密室で、二人は互いの存在だけを理由にして息をしている。
カシャ、とシャッターを押す。
液晶画面に映し出されたのは、光の中で滲む二人の影と、歪んだ夏の一欠片。
茜色の夕暮れが訪れるまで、二人は熱を孕んだ風の中で、互いの存在を確かめ合うようにシャッターを切り続けた。戻れない場所へと引き返せなくなっていることに、二人とも気づかない振りをしたまま。




