雨の匂いと輪郭
月曜日の放課後、空は朝からの曇天をこじらせ、低く重い雨雲を垂れこめさせていた。
パラパラと湿った音を立てて落ち始めた雨粒が、校舎の窓ガラスを斜めに滑り落ちていく。凛は図書室の窓際に立ち、誰もいない中庭を見下ろしていた。
週末のカフェ巡りは、滞りなく終わった。グループの女子たちが注文した色鮮やかなパフェを何枚も撮影し、「さすが一ノ瀬さん、上手!」と褒めそやされ、適当な笑顔と謙遜を返した。完璧な出来栄えだったと思う。けれど、カメラのメモリーカードに溜まった鮮やかな写真を見返しても、心は一向に波立たなかった。
あの屋上で撮った、不機嫌そうで、どこか冷えた瞳をした凪の横顔ばかりが、頭の裏側に焼き付いて離れない。
『ここで私といるときまで、そんなつまんない顔しないでよ』
耳の奥で繰り返される声。唇に触れられたときの、カサついた指先の熱。
凛は小さく息を吐き、カメラバッグを強く握りしめた。雨足が強まる前に、旧校舎へ向かうために。
雨の日の旧校舎は、いつも以上に静まり返っていた。ひんやりとした空気が廊下に満ち、足音がやけに大きく響く。屋上に通じる重い鉄の扉を開けると、激しい雨の音がダイレクトに耳を刺した。
屋上へ出る踊り場、濡れないギリギリの場所に、凪は一人で座り込んでいた。
「……雨、降ってきたね」
凛が声をかけると、凪は膝に顔をうずめたまま、ゆっくりと視線だけを上げてきた。いつもの生意気な笑みはなく、どこか怠惰で、ガラス細工のように脆い光を瞳に宿している。
「知ってる。見てたから」
凪の袖口が、少しだけ雨で濡れて濃い紺色に変色していた。凛はその隣に腰を下ろし、自分の鞄から乾いたタオルを取り出して凪の肩にかけた。
「濡れるよ。もっと奥に入りなよ」
「……凛さ」
凪はタオルを払いのけることもせず、濡れた髪の隙間から凛をじっと見つめた。
「週末、楽しかった?」
「……ううん」
偽る理由なんて、最初からなかった。凛は膝を抱え、自分のつま先を見つめた。
「綺麗な写真はいっぱい撮れたよ。みんな喜んでくれた。でも、全然おもしろくなかった。……私、誰といても、凪といるときみたいになれない」
静寂が二人を包み込む。雨音だけが、世界の背景として打ちつけられていた。
凪はゆっくりと手を伸ばし、凛の手首を掴んだ。冷たい指先。けれど、その力は驚くほど強かった。
「私以外に、見せないで」
「……え?」
「一ノ瀬凛の、そのくだらない完璧な顔も、冷めた顔も、私だけ知ってればいいじゃん。他の奴らに見せるの、すっごくイライラする」
乱暴で、身勝手で、どこまでも独善的な言葉。
けれど、凛の胸の奥で、カチリと何かが嵌まる音がした。それは恐怖でも拒絶でもなく、ずっと探していた「存在の証明」を与えられたような、恐ろしいほどの充足感だった。
凛は手首を掴まれたまま、もう片方の手でカメラを構えた。ファインダー越しではなく、肉眼でまっすぐに凪を見つめ直す。
「……なら、消えないでね」
「は?」
「私が凪だけを撮るから。凪も、私だけ見てて」
二人だけの密室のような踊り場で、雨の冷気と、互いの熱だけが濃密に混ざり合っていく。薄水色だった世界はもう、どこにも残っていなかった。




