偽物の温度
「一ノ瀬さん、今週末って暇だったりする?」
金曜日の昼休み、お弁当の蓋を閉めたタイミングで、同じグループの女子生徒から声をかけられた。周りの視線が一斉にこちらへと集まる。
「週末? うん、特に予定はないけど……どうしたの?」
「隣町の駅前に新しいカフェができたんだって。みんなで行こうよって話になってさ。映えるパフェとかもあるみたいだし、一ノ瀬さん写真得意だから綺麗に撮ってほしいなーって」
無邪気で、悪意の欠片もない誘い。凛は頭の中で一瞬だけ計算を巡らせる。ここで少し嬉しそうに頷き、「楽しみ」と添えるのが、一ノ瀬凛としての正解だ。
「わあ、いいね。一緒に行きたい」
口角を上げ、絶妙なトーンで返す。グループの女子たちが「やったー!」「じゃあLINEで時間送るね」と盛り上がる声を聞きながら、凛は胸の奥が急速に冷え込んでいくのを感じていた。
映えるパフェ、盛り上がっているフリをする会話、互いに探り合いながらの共感。それらを否定したいわけではない。ただ、その輪の中にいる自分が、酷く不透明で、スカスカな存在に思えて仕方がないのだ。
放課後、いつものようにカメラバッグを肩にかけ、非常階段の重い扉を押した。
鉄の軋む音とともに広がる、夕暮れ色の空間。フェンス越しに見える街並みは、オレンジ色と群青色の境界線の中に沈みかけていた。
屋上の隅には、今日も冴島凪がいた。今日はコンクリートの上に直に仰向けになり、片腕を額に乗せて空を仰いでいる。
「……寝てるの?」
凛が声をかけると、凪はゆっくりと腕をどかし、目を細めた。
「寝てない。雲が動くの見てた」
「風邪ひくよ。コンクリート、冷たいでしょ」
「一ノ瀬さんって、たまにお母さんみたいなこと言うよね」
凪は身体を起こすと、呆れたようにクスリと笑った。その気負いのない姿を見るだけで、昼間から胸に溜まっていた重たく澱んだ空気が、少しだけ薄まる気がした。
凛は凪の隣に屈み込み、鞄から一眼レフを取り出した。レンズのキャップを外し、ファインダーを覗く。
「……撮ってもいい?」
「断っても撮るでしょ」
凪は拒む風でもなく、ただその強い瞳でまっすぐにレンズを見つめてきた。
ファインダー越しに見る凪は、どこか浮世離れしていた。整いすぎない髪、少し不機嫌そうな眉、夕日を反射して複雑な光を宿す茶色い瞳。クラスの誰も見ていない、誰にも見せていない凪の輪郭が、レンズの底で鮮明に結像する。
カシャ、と乾いたシャッター音が響く。
「……ねえ、冴島さん」
「凪でいいよ。私も凛って呼ぶし」
唐突な呼び方の提案に、凛の指先がピタリと止まった。クラスの誰からも「一ノ瀬さん」としか呼ばれない自分が、「凛」と呼ばれること。その小さな響きの違いに、心臓が跳ねる。
「……じゃあ、凪」
ぎこちなく口にすると、凪は満足そうに口元を緩めた。
「で、何?」
「……私、クラスの人に週末カフェに誘われたの。写真撮ってほしいからって」
「へえ。行けばいいじゃん」
「……行きたくないわけじゃないよ。でも、そこにいる自分がすごく嘘くさくて嫌になるの。笑って、相槌打って、相手が欲しい言葉を渡して……それって、誰でもいいってことじゃない?」
気づけば、誰にも言ったことのない弱音を口にしていた。優等生でなければならないという呪縛を、凪の前でだけは易々と手放してしまう。
凪は黙って凛の話を聞いていたが、やがてポケットからいつもの駄菓子箱を取り出し、白い棒を一本差し出してきた。
「食べる?」
「……これ、駄菓子でしょ。甘いの苦手だし」
「いいから」
強引に握らされたそれを、凛は戸惑いながらも口にくわえた。人工的な甘いイチゴの香りと、ほんのりとした安っぽい砂糖の味が口いっぱいに広がる。
「嘘ついて笑うのが嫌なら、やめれば?」
「そんなの……簡単にできたら苦労しないよ。居場所がなくなっちゃう」
「居場所なんて、ここにあるじゃん」
凪は事もなげに言い切り、凛の顔を覗き込んできた。息がかかるほどの距離。凪の指先が伸ばされ、凛の唇の端、駄菓子が触れている部分にそっと触れた。
カサついた指の皮膚感覚が、直に伝わってくる。微かな熱。
「ここで私といるときまで、そんなつまんない顔しないでよ。凛の本気の顔、私だけに見せてればいいじゃん」
「っ……」
凛は息を飲んだ。
独占欲のような、執着のような、重く甘い言葉。そして、唇に残る指の感触。
昼間の偽物の笑顔とは違う、生々しい「本物の熱」が、凛の全身を駆け巡っていた。




