影の置き場
翌日も、空は嫌になるほど晴れていた。
一ノ瀬凛は、教卓に立つ数学教師の声をBGM代わりに、ノートの隅へ規則的な幾何学模様を描き続けていた。真面目に授業を聞いている振りをするのは、呼吸と同じくらい簡単だった。時折うなずき、黒板の文字を写し、隣の席の女子生徒と視線が合えば、申し分ない笑みを返してみせる。
けれど、頭の片隅にはずっと、あの駄菓子の甘いイチゴの香りと、冷ややかな瞳がへばりついていた。
『あんた、こういう写真撮るときも、そうやって「いい子ちゃん」の顔するんだね』
耳の奥で、冴島凪の声が反芻する。自分のすべてを見透かされたような感覚は、不快でありながら、どこか奇妙な浮遊感を伴っていた。自分を完璧に演じ切ることに疲れていたのは確かだ。だが、それを踏みにじるような言葉を、あんな風に笑って投げつけられる筋合いはない。
(何なの、あいつ……)
シャープペンの芯が、チッと小さな音を立てて折れた。
放課後を知らせるチャイムが鳴ると、凛はいつものようにクラスメイトからの雑談や頼み事を適当にいなし、鞄を肩にかけた。部室へ行く気にはなれなかった。足は自然と、昨日と同じ旧校舎の非常階段へと向かっていた。
理由ならいくらでも付けられた。昨日の不躾な言葉に対して、一言言い返してやらなければ気が済まないから。あるいは、頼まれた写真を渡すため。
だが、心の底では分かっていた。ただ、あの仮面を剥ぎ取られる瞬間の、恐怖と隣り合わせの解放感を求めているのだと。
重い鉄の扉を押して屋上へ出ると、強い秋風が凛の短い髪を撫でた。
フェンスの傍ら。そこには今日も、同じ場所に座り込む冴島凪の姿があった。膝の上にノートを一冊開き、ペンを走らせている。凛の足音に気づくと、凪はゆっくりと顔を上げた。
「……あ、来た」
凪は別に驚く風でもなく、淡々と言った。口元には昨日と同じ、イチゴ味の駄菓子が咥えられている。
「来ないと思ってた?」
凛は歩み寄り、制服のポケットから一枚のL判写真を取り出した。昨日、部室のプリンターで密かに印刷しておいたものだ。
「約束の写真。……これ渡したら、もう昨日みたいなこと言わないで」
受け取った凪は、写真を夕日の光にかざしてじっと眺めた。液晶画面で見るよりも、紙に定着した写真はどこか湿り気を帯びて見えた。夕暮れの影と、不機嫌そうな凪の横顔。
「ふーん。綺麗だね、やっぱり」
「……バカにしてるの?」
「してないよ。技術はすごいんじゃない? ただ、やっぱり『作品』って感じ。あんたの意思が見えない」
凪は写真をノートの間に挟むと、ポンポンと自分の隣のコンクリートを叩いた。
「座りなよ。立ち話も何だし」
断ることもできたはずなのに、凛の身体は引き寄せられるようにそこへ腰を下ろしていた。コンクリートの冷たさが、スカート越しにじわりと太腿へ伝わってくる。優等生の一ノ瀬凛なら絶対にしない、行儀の悪い座り方。
「凪さんは、何書いてたの?」
気まずさを紛らわせるように尋ねると、凪はあっけらかんとノートを開いてみせた。そこには、歪な線で描かれた校舎のスケッチや、意味をなさない言葉の断片が散らばっていた。
「暇つぶし。陸上やめてからさ、放課後ってめちゃくちゃ時間余るんだよね。みんな部活行ったり、塾行ったり、忙しそうにしてるけど」
「……後悔してる? 部活、やめたこと」
「全然」
凪は即答した。迷いのない声だった。
「走るの好きだったけど、誰かとタイムを競うのも、顧問の期待に応えるのも、なんか途中でどうでもよくなっちゃってさ。……一ノ瀬さんは? 写真、好きでやってるの?」
不意に振られた質問に、凛は言葉を詰まらせた。
「好き、うーん……分かんない。カメラを持ってる間は、世界と自分の間に一枚フィルターを挟めるから、楽なだけかも」
「フィルター、ね」
凪は膝を抱え直し、空を見上げた。
「じゃあさ、そのフィルター越しでいいから、私のこと撮りなよ。これからも」
「は……? なんで」
「あんた、クラスにいるとき死んだ目してるじゃん。でも、昨日私が暴いたとき、ちゃんと生きてる人の目になってた。私、あんたのその嫌そうな顔、嫌いじゃないよ」
凛は息を飲んだ。
勝手で、不躾で、乱暴な言い分。けれど、そのまっすぐな瞳に見つめられると、胸の奥が不自然に熱くなった。自分の「不完全な部分」を面白がる人間なんて、今まで一人もいなかったのに。
「……変な人」
ぽつりと呟くと、凪は嬉しそうに「よく言われる」と笑った。その笑顔には飾りが一切なくて、凛は急に眩しさを感じて視線を逸らした。
風が吹き抜け、甘いイチゴの香りが二人の間に漂う。
退屈で完璧だった日常に、小さな亀裂が入った音がした。そして凛は、その亀裂を塞ぎたいとは思っていない自分に、うっすらと気づき始めていた。




