薄水色のの空気に滲む
たくさん投稿していますが、ストックが大量にあるだけです
校舎の三階、廊下の突き当たりにある窓から差し込む西日は、いつも少しだけ埃っぽく、それでいて驚くほど冷たかった。
一ノ瀬凛は、放課後を知らせるチャイムの余韻が消え切らないうちに、鞄の中からデジタル一眼レフカメラを取り出した。手に伝わる金属とゴムの質感だけが、この退屈で完璧な世界の中で唯一、本物であるような気がした。
「一ノ瀬さん、今日のノート、あとで貸してもらってもいい?」
振り返ると、同じクラスの女子生徒が申し訳なさそうな顔で立っていた。凛は瞬時に表情を作り替える。口角を少しだけ上げ、目元を和らげ、声のトーンを半音高くする。
「うん、もちろん。放課後にLINEで送っておくね」
「ありがとう! 助かる〜。一ノ瀬さんって本当、いつも頼りになるよね」
『いい人』で『優秀な生徒』である一ノ瀬凛。それがクラスにおける自分の立ち位置であり、崩してはならない仮面だった。周りの期待に応え、波風を立てず、誰にでも平等に微笑む。その作業は、まるで決められた手順に従ってパズルを組み立てるようなもので、難しくはないけれど、酷く空虚だった。
クラスメイトが立ち去ると、凛はふうと小さく息を吐いた。
写真部の活動日ではあったが、部室には向かわず、吸い寄せられるように旧校舎へと足を向けた。昭和の終わりに建てられたという旧校舎は、現在は機材置き場として使われており、放課後になると人影は途絶える。
立ち入り禁止の札が下げられた非常階段を上り、屋上へと続く重い鉄の扉を押す。鍵はとうの昔に壊れており、少し力を込めればキーキーと不快な音を立てて開いた。
澄み渡った秋の空が広がっていた。街を一望できるこの場所は、凛にとって唯一、作られた「優等生」の皮を脱ぎ捨てられる場所だった。
――はずだった。
「……あ」
先客がいた。
フェンスに背を預け、コンクリートの床に直接座り込んでいる少女。膝を抱えるようにして空を見上げているのは、同じ学年の冴島凪だった。
凪は、今年に入って陸上部を突然やめ、それ以来クラスでも浮いた存在になっている女子生徒だった。噂では先生と揉めたのだとか、部員と喧嘩をしたのだとか言われていたが、凛にとっては自分と交わることのない「世界の背景」の一人に過ぎなかった。
凪はこちらの足音に気づくと、ゆっくりと視線を向けた。その手には、白と赤の小さな箱。
口元には、一本の白い棒が咥えられていた。
夕日に照らされた横顔と、唇から零れ落ちる小さな吐息。一瞬、凛の心臓が不自然な跳ね方をした。
(タバコ……?)
真面目を絵に描いたような日常の中に突如現れた「非日常」の光景に、凛の手は無意識に動いていた。息を止め、ファインダーを覗き込み、シャッターを切る。
カシャ、という乾いた機械音が、誰もいない屋上に小さく響いた。
「……何撮ってんの」
凪の声は低く、どこか投げやりだった。彼女は口から白い棒を外すと、それをボリボリと噛み砕いた。甘いイチゴの香りが、風に乗って凛の鼻腔をくすぐる。
タバコ型の駄菓子だった。
「……ごめん。勝手に」
凛はカメラから目を離し、気まずさを隠すように小さく頭を下げた。優等生の完璧なスマイルを作ろうとしたが、凪の強い視線に射抜かれ、うまく表情を作ることができない。
凪は立ち上がり、制服のスカートについた埃を払うと、まっすぐに凛へと歩み寄ってきた。身長は凛よりも少し低い。けれど、その瞳に宿る力強い光は、凛を圧迫するのに十分だった。
「一ノ瀬さん、だっけ。写真部?」
「……うん」
「ふーん。ねえ、今の見せてよ」
断る理由もなく、凛はカメラの液晶画面を表示させ、凪に見せた。
画面の中には、夕暮れの光の中で不貞腐れたように駄菓子を咥える凪の姿。光と影のコントラストが巧みに計算され、どこか哀愁を帯びた一枚に仕上がっていた。
凪はしばらく画面をじっと見つめていたが、やがて鼻で笑った。
「うわ、なにこれ。めちゃくちゃ『綺麗』に撮れてるじゃん」
その言葉には、明らかな皮肉が含まれていた。凛は眉をひそめる。
「不満なら消すけど」
「消さなくていいよ。たださ……」
凪は急に顔を近づけてきた。息がかかるほどの距離。凪の瞳の中に、夕焼けの赤と、自分の動揺した顔が映っているのが見えた。
「あんた、こういう写真撮るときも、そうやって『いい子ちゃん』の顔するんだね」
「……え?」
「目の奥、全然笑ってない。いつもクラスで笑ってるときと同じ。つまんないの。
心臓の奥を、冷たい針で刺されたような感覚だった。
誰にも気づかれたことがなかった。自分が作り笑いをしていることも、内側で冷めた冷気を吐き出していることも。親も、先生も、友人たちも、みんな凛の「完璧な仮面」に騙されていたのに。
目の前にいる、言葉すら交わしたことのない少女だけが、一瞬でそれを暴いてみせた。
「……あんたに何が分かるの」
気づけば、凛の声から「優等生」の作られたトーンが消えていた。低く、感情の篭もらない、本来の自分の声。
凪はそれを取り繕うこともせず、満足そうにニッと笑った。
「あ、その顔。そっちの方がずっといいじゃん」
凪はポケットに手を突っ込むと、背を向けて屋上の扉へと向かっていった。
「写真、ちょうだいね。今度」
手すりを掴む凛の指先が、微かに震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、それとも暴かれたことに対する歪んだ歓喜なのか、自分でも判別がつかない。
ただ一つ確かなのは、薄水色の退屈だった世界に、拭い去れない濃い群青色のシミが広がってしまったことだった。
なかなか小説って読まれないものなんですね




