落ちていく夕焼け
校内放送の甲高いチャイムの音が遠くのスピーカーから響き渡り、やがて放課後の訪れを告げる無機質な終話音が静まり返ると、旧校舎の踊り場には再び息のつまるような重苦しい静寂が戻ってきた。
凛の指先は、凪の頬に触れたまま凍りついたように動かなかった。
手のひらを通じてじわじわと伝わってくるのは、九月の夕刻がもたらす冷気と、その奥に確かに存在する微かな体温。かつて二年前の夕暮れ、無我夢中で掴み取ったその少女の命の温もりを、長い月日といくつもの嘘を経て、凛は今ようやく正しく認識したような気がしていた。
「……どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」
凛の声は掠れており、自分でも驚くほど弱々しく空気の中に消えた。
「言ったらどうなるの?」
凪は静かに目を開けると、凛の手をゆっくりと、しかし確実に押し返した。その指先から伝わる力には、先ほどまでの激しい感情の昂ぶりや涙の痕跡ではなく、どこか冷ややかな落ち着きが戻っていた。
「『覚えてない』って困った顔をされるか、哀れみみたいな顔で謝られるだけでしょ。そんなの、耐えられるわけないじゃん。凛にそんな顔されるくらいなら、何も知らないまま私に執着してくれてる方がマシだった」
「そんなこと……っ」
「本当のことでしょ。私はさ……凛が『完璧な一ノ瀬凛』の仮面に息を詰まらせて、私にすがりついてくるのをずっと待ってたんだよ。あのカメラのレンズを向けられている時だけ、凛は私のことだけを見てくれていたから。本当の凛を私だけのものにできるなら、私の過去の記憶なんてなくてもいいって、本気で思おうとしてた」
凪は嘲笑うように薄い唇を歪め、自嘲の笑みを浮かべた。
「でも、ダメだった。教室でみんなに囲まれて綺麗な顔で笑ってる凛を見るたび、胸の奥が焼き切れるみたいに痛かった。私をあの絶望から引っ張り出したくせに、自分だけ綺麗な場所で何事もなかったみたいに生きてるのが許せなかったの。凛のその綺麗な日常を、引き裂いてやりたかった」
凛の胸の奥に、鋭い針で刺されたような痛みが走る。
周囲の期待に応え、「完璧な良い子」を演じることで自分を守ってきた日常。しかしそれは、凪から奪い取った平和と希望の上に成り立っていた、虚飾の城に過ぎなかったのだ。救った気になっていたのも、救われた気になっていたのも、すべては凛の独善的で都合のいい錯覚だった。
「ごめなさ……なんて言ったら、余計に怒るよね」
「謝らないでよ。そんな安っぽい言葉、何の意味もない」
凪はそっけなく吐き捨てると、凛に背を向け、カビ臭い空気の漂う踊り場の小窓の方へとゆっくり歩き出した。窓の外では、九月の夕日が空を赤黒く染め上げ、校庭の防風林や校舎の影を不気味なほど長く伸ばしている。
「ねえ、凛」
「なに……?」
「私ね、陸上を辞めたとき、自分の身体の一部が死んじゃったみたいに思えたの。走ることも、笑うことも、全部どうでもよくなった。でも……凛に写真を撮られている時だけは、息ができた。……ねえ、凛はこれからも、私が壊れていく姿を撮り続けたいの?」
「……撮りたくない。壊したいわけなんて、ない」
凛は掠れる声を絞り出し、強く頭を振った。
「じゃあ、凛は私の何を撮りたいの?」
窓辺に立つ凪からの問いが、静まり返った踊り場に重く響く。
凛は手元に視線を落とした。首から下げた一眼レフカメラは、重く、そして氷のように冷たい。周囲の期待に応え続けるための「優等生の盾」として使い、同時に凪との歪んだ関係を保つための道具にしてきた機械。けれど、今目の前にいる凪は、フィルターやレンズ越しではなく、剥き出しの生身の姿で自分に真実を問いかけている。
「私……凪の本当の姿を撮りたい」
凛が一歩、前へ足を踏み出した。
「私をずっと待っていてくれた凪を。逃げずに、ちゃんとこの目で見たい。ううん……写真なんて撮らなくたっていい。カメラがなくても、私は凪を見る」
「本当の姿なんて、もうどこにもないよ」
凪は嘲笑うように呟いたが、その声の端には隠しきれないかすかな震えがあった。凛を突き放し拒絶しながらも、どうしても完全に突き放すことのできない弱さと切望。
「凛が壊したんだから。あの夏に私を助けて、忘れて、置き去りにした時に……私の半分は壊れたんだよ」
「壊したなら……私が責任を持つ」
凛はさらにもう一歩踏み出し、凪との距離を詰めた。過去の過ちも、自分自身の歪みも、すべてを背負う覚悟を込めて、凪の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「凪が私を放さないのと同じように、私ももう、凪を絶対に放さない。教室での私も、ここでの私も、全部凪に見せる。だから……私から離れないで」
完璧だった「一ノ瀬凛」の仮面は、もう跡形もなく砕け散っていた。けれど、その破片が散らばる足元で、二人は互いの傷と歪みを抱えたまま、ゆっくりと手を重ね合わせた。
窓の外では夕闇が急速に濃くなり、茜色の世界を深い群青色へと塗り潰していく。戻ることのできない秋の深淵へと、二人は互いの存在だけを確かな道標にして、深く静かに堕ちていくのだった。




