歪む境界線
放課後の校舎は、まるで潮が引いた後の海のように急速に気配を失っていく。
夕闇が旧校舎の踊り場をじわじわと侵食し、二人の足元を深い影で満たしていた。重なり合った手のひらから伝わる熱だけが、ここが夢でも過去の幻影でもないことを主張している。
凛は自分の指を、凪の指の間に滑り込ませた。ぎこちなく、けれど力強く指を絡め合わせる。
「……ねえ、凛」
凪がぽつりと呟いた。手をつないだまま、彼女はゆっくりと踊り場の壁に背を預ける。白く剥げかけたペンキの壁に、凪の細い体が沈み込んでいくように見えた。
「『離れない』って言ったよね」
「うん。言ったよ」
「口だけなら、なんとでも言えるよ。明日になればまたクラスの奴らに囲まれて、私のことなんて見えないふりをするんじゃないの? 今までの二年間みたいにさ」
凪の茶色い瞳が、暗がりの中で冷たく光る。言葉の尖りとは裏腹に、凛の指を握り返す凪の力は、骨が痛むほどに強かった。疑いと、拒絶と、失うことへの強い恐怖。そのすべてが、握りしめられた手を通じて凛の皮膚へと伝わってくる。
「疑うなら、疑ってもいいよ」
凛は逃げずに、凪の視線を正面から受け止めた。
「今まで私がどれだけ都合のいい嘘をついて、凪を傷つけてきたか……自分でも分かってるから。だから、簡単に信じてもらおうなんて思ってない」
「じゃあ、どうやって証明するの?」
凪が顔を近づけてくる。安っぽいイチゴの人工的な香りと、かすかに混ざる夕方の冷たい空気。至近距離で交わる視線の中で、凛は自分の胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。恐怖ではない。これまで自分を縛り続けてきた「完璧な一ノ瀬凛」という呪縛が、完全に解けていく感覚だった。
「明日、教室で……みんなの前で、凪と話す」
「……は?」
凪が目を見開いた。驚きと、信じられないという色がその瞳に走る。
「何言ってるの……? 凛がそんなことしたら、クラスでの『綺麗で完璧な一ノ瀬さん』の立場、全部壊れるんだよ? 私みたいな浮いた奴と親しくしてたら、周りからなんて言われるか……」
「壊れてもいいよ」
凛は迷いなく言い切った。
「元々、そんなもの全部偽物だったんだから。両親の理想どおりの娘でいることも、クラスで好かれる優等生でいることも、私にとっては息が詰まるだけの演劇だった。……でも、凪といる時だけは、自分が呼吸できてるって感じられた」
凛は自由になっているほうの手で、首から下げた一眼レフカメラのストラップをゆっくりと外した。ずっしりとした金属の重みが、手元へと移る。
「このカメラも、本当は自分の弱さを隠すための道具だった。誰かを撮ってるフリをして、自分は見られないように逃げてただけ。でも、これからは逃げない」
凛はカメラをそっと踊り場の床に置いた。コンクリートの硬い床に金属が当たる、小さく冷たい音が響く。
レンズという遮蔽物を失い、二人の間には何もなくなった。むき出しの視線と、互いの荒い息遣いだけが踊り場の空気を満たしていく。
「凛……正気なの?」
「正気だよ。今までで一番、頭がはっきりしてる」
凛は凪の握りしめられた手に、もう一方の手も重ねた。包み込むようにして、逃がさないように力を込める。
「凪が私に執着してくれたおかげで、私は自分が人間だって思い出せたの。私が壊した凪の人生なら、私が一生かけて付き合う。だから、お願い……私を置いていかないで」
凪の唇が微かに震えた。冷ややかな仮面が剥がれ落ち、そこから覗いたのは、ずっと一人で耐え続けてきた少女の怯えだった。
「……バカじゃないの。本当に……最悪だよ、凛は」
凪は毒づいたが、凛の手を振り払おうとはしなかった。それどころか、すがるように凛の肩に額を預け、小さく息を吐き出した。
窓の外では夕闇が完全に校舎を包み込み、薄暗い街灯の光がちらつき始めていた。完璧な優等生と、浮いた存在の少女。放課後の踊り場で重なり合う二人の影は、もう二度と解けることのない歪な形で、暗闇の中に深く沈んでいった。




