断片の結節点
始業式の熱気と喧噪が遠くからかすかに届く旧校舎の踊り場で、凛の思考は完全に停止していた。
足元からすっと血の気が引き、心臓だけが嫌な速さと強さで胸の肋骨を叩いている。耳の奥では、カチカン、カンカンという踏切の警報機のような残音が、現実に存在するはずのない幻聴となって不気味に響き続けていた。
「……嘘、でしょ……」
凛の口から漏れたのは、乾いた空気にかすれる弱々しい呟きだけだった。
凪の手は、凛の制服の襟元を掴んだままガタガタと震えていた。布地越しに伝わってくるその指先の冷たさと力込められた圧力。そこにあるのは、単なる激しい怒りや憎悪ではなく、何年も暗闇の中に置き去りにされてきた者特有の、切なくも恐ろしいほどの切望だった。
二年前の夏。陸上大会の帰り道。夕暮れ時の踏切。
記憶の最奥に固く重い蓋をして封印していた光景が、凪の発した一言一言によって、鮮烈な色彩と匂いを伴って脳裏に蘇っていく。
当時、中学三年生だった凛は、学校の枠を超えた地区の合同陸上大会に写真部の記録係として参加していた。そこで他校の陸上部に所属していた凪の走りを目にしていたのだ。強い風を切り、誰よりも美しくトラックを駆け抜ける少女の姿。その鮮烈な印象は、カメラを構える凛の眼裏に強く焼き付いていた。
しかし、その日の大会の帰り道、駅へと続く沿道の踏切近くで偶然見かけたその少女は、トラックで見せた輝きを完全に失っていた。光の消えた虚ろな目で、赤く点滅する遮断機の前へと吸い込まれるように足を一歩踏み出そうとしていたのだ。
警報機が狂ったように鳴り響く中、気づいた時には凛の体が勝手に動いていた。
叫びながら飛びつき、少女の細い身体を後ろから力任せに抱きかかえて、二人して激しくアスファルトの上を転がった。耳元をかすめるすれ違う電車の激しい轟音と風圧、そして全身を襲った強い衝撃と鈍い痛み。
(あのときの……あの子が、凪だったの……?)
あの時、凛は激しく頭を打ったことによる脳振盪と衝撃のショックで、しばらくの間意識が混濁していた。警察や大人たちの間では「見知らぬ通行人を助けようとして巻き込まれた軽傷の事故」として処理され、凛自身も恐ろしい体験への自己防衛からか、あの日助けた少女の顔や詳細な記憶を無意識のうちに記憶の彼方へ追いやっていたのだ。自分の中で都合よく処理し、完璧な日常生活を維持するために消去していた過去。
けれど、あの日踏切の前で完全に絶望していた少女にとって、その出来事は人生のすべてを一瞬で変えてしまうほど決定的な出来事だったのだ。
自分を暗闇から強引に引きずり出し、「勝手に消えないで、私があなたを見るから」と叫んだ存在。
「私ね、凛と同じ高校に合格したって分かったとき……本当に嬉しかったんだよ」
凪は力なく掴んでいた手を緩め、自嘲気味に目を細めた。その瞳からは次々と涙が溢れ出し、彼女の乾いた頬を濡らしていく。
「これでやっと、あの日凛が言った言葉の意味が分かるって思った。私のことを、誰よりもちゃんと見てくれるんだって。……でもね、入学してみたら凛は私のことなんて欠片も覚えてなかった。誰もが羨む綺麗な顔で、みんなの『一ノ瀬さん』を完璧に演じてて……私の前をすれ違っても、まるで道端の石コロでも見るみたいな、冷たい他人の目をしてた」
「凪、私……私、本当に頭が混乱してて……事故のショックで……」
「言い訳しないでよ!」
凪の声が、狭い踊り場の壁に反射して激しく響いた。
「だから、陸上なんてどうでもよくなったの。走る理由なんて、凛に見てもらうこと以外に最初からなかったんだから。凛が私を見ないなら、私には生きている価値なんて何もないんだって……そう思って、ずっとこの旧校舎の屋上に一人で逃げてた。そうしたら……凛がカメラを持って、私の前に現れたんだよ」
凪の瞳が、涙で濡れながらも妖しく光る。
「あの時と同じ顔で……私を、レンズ越しにじっと見つめてくれた。その瞬間、分かったんだ。ああ、凛は私を忘れてなんてなかったんだって。言葉じゃなくて、このカメラのレンズを通して私を求めてくれてるんだって思おうとした。……でも、違った。凛はただ、自分が『良い子』でいるのに疲れて、私を便利な都合のいい逃げ場にしてただけだった」
凛は息が詰まり、一言も返せなかった。
自分が「優等生」としての息苦しさから逃れるために向けていたカメラ。誰かから必要とされ、特別でありたいという歪んだ自己満足。それらはすべて、かつて自分が凪の心に植え付けた巨大な執着の影を、ただ無自覚になぞり直していただけに過ぎなかったのだ。
救った側と、救われた側。
加害者と被害者のような、けれどそれ以上に深く、重く結びついた二人の共犯関係。
「……私は、凪を助けたつもりで……一番酷い形で、置き去りにしていたんだね」
凛はガタガタと震える自分の手を伸ばし、ゆっくりと凪の濡れた頬に触れた。凪は逃げようとはせず、凛の冷たい手のひらに自分の頬を押し当てるようにして、静かに目を閉じた。
「……最低だよ、凛は。私をこんな風にしておいて」
「うん。最低だね……ごめんなさい、凪」
「謝らないで。逃がさないから……絶対に」
「……逃げないよ。もう、どこにも」
二人の過去の線が一つに繋がった瞬間、放課後を告げる校内放送の無機質なチャイムが虚しく鳴り響いた。完璧に装飾されていた「一ノ瀬凛」の世界は完全に破綻し、けれど二人は初めて、偽りの一切ない地平で互いを見つめ合っていた。
暗い踊り場を満たす秋の気気配の中で、二人の物語は戻ることのできない深淵へと、静かに、そして確実に沈み込んでいくのだった。




