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指先で薄氷を割る  作者: 狐丸
レンズ越しの虚飾
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18/25

記憶の波紋と開校の鐘

九月。長く熱い夏休みの終わりを告げる始業式の朝、校庭の防風林からは、季節から取り残されたようなつくつくぼうしの声が力なく響いていた。


一ノ瀬凛は、完璧にアイロンの当てられた制服の袖を整え、鏡の前で自分の顔を確かめた。口角の角度、目元の緩ませ方、背筋の伸ばし方。そこに映っていたのは、周囲の期待を完璧に体現する「いつもの一ノ瀬凛」だった。


(大丈夫。いつも通りに演じればいいだけ)


自分に言い聞かせるように深呼吸を一つ吐き、登校する生徒たちの波の中へと紛れ込んでいく。


教室の扉を開けると、夏休み明け特有の蒸し暑い熱気と喧噪が凛を襲った。「一ノ瀬さん! 全然日焼けしてないね、夏休みどこか行った?」「宿題の最後のページ、答え合わせさせてほしいんだけど!」と、クラスメイトたちが一斉に群がってくる。


「ううん、ずっと家に引きこもって宿題やってたよ。ノートでよかったらどうぞ」


凛は澱みない動作で鞄からノートを取り出し、いつもの控えめで誰からも好かれる笑みを浮かべた。周囲からは「助かるー!」「やっぱり一ノ瀬さんは頼りになるね」と感嘆の声が上がる。完璧な滑り出し、元通りの日常。


しかし、その巧妙に作られた防壁は一瞬で脆くも崩れ去ることになる。


教室の後方、いつも空席だった冴島凪の席に、誰かが座っていたのだ。


乱れた黒髪を揺らし、だるそうに肘をついて窓の外を眺める姿。凪が始業式から登校していること自体、この一年間で一度もなかった異常事態だった。


クラスメイトたちが遠巻きにざわつく中、凛の視線と凪の視線が交差した。


凪の茶色い瞳には、夏の海で見せた弱さや怯えはなく、ただ冷たく鋭い「何か」が宿っていた。凪はゆっくりと薄い唇を歪め、凛にしか読めない口動きで「いい子ちゃん」と呟いた。


胸の奥が不気味に冷え込み、手足の先から感覚がすっと引いていく。


始業式が終わり、生徒たちがゾロゾロと教室へ戻る廊下の喧騒をぬって、凛は人目を盗んで凪の制服の袖を掴んだ。階段の踊り場の陰へと強引に引きずり込む。


「凪……どうして? 今日から学校に来てるの? 体調はもういいの?」


「どうしてって、学校に来ちゃいけない理由でもあるの?」


凪は冷ややかな声で応えると、凛の手を拒絶するように振り払った。手首に残る、冷え切った感触。


「凛さ、教室での顔、本当に気持ち悪いね。あんな奴らにヘラヘラ笑いかけてさ。私と海にいた時の顔と、どっちが本当の一ノ瀬凛なの?」


「それは……」


「答えてよ。ここで大声で言ってみなよ。『私には凪しか必要ない』って、クラスのみんなの前で叫べる?」


凪の言葉は鋭利な刃となって凛の胸を削り取っていく。教室という「表の日常」と、踊り場という「裏の密室」。二つの世界が急速に混ざり合い、凛が必死に守ろうとしていた境界線が音を立てて崩れていく。


凛は逃げるように首から下げた一眼レフカメラに手を伸ばそうとしたが、凪はその手首を強く掴んで制した。


「カメラの後ろに隠れて、安全な場所から私を見るのはやめてよ。……ねえ、凛。海で私が言ったこと、覚えてる?」


至近距離まで顔を近づけてくる凪。安っぽいイチゴの香りに混ざって、痛烈な執着と焦燥の匂いが漂った。


「『私を救ったくせに』って言ったよね。……凛は本当に、何も覚えてないの?」


「え……?」


凛の頭の中が真っ白になった。思考が途切れ、息の吸い方が分からなくなる。


「私を救ったって……何のこと? 私はただ、放課後に凪の写真を撮り始めて……」


「違うよ!」


凪の抑えた叫び声が、誰もいない静かな階段に虚しく木霊した。凪の瞳から、ボロつくように大きな涙がこぼれ落ちる。激しい怒りと、壊れそうなほどの哀惜。


「二年前の夏……陸上の県大会の帰り道。私、記録が出なくて、もう全部嫌になって、線路の踏切の前に立ってたの」


凛の胸が、ドクンと嫌な跳ね方をした。


「誰も私を見てくれなくて、誰も私の苦しみに気づいてくれなくて……そのまま飛び降りようとした私の腕を、猛スピードで走ってきた凛が力任せに引っ張って……助けてくれたんじゃん!」


(あ……)


凛の脳裏で、固く閉ざされていた過去の扉がギィと嫌な音を立てて開き始めた。

夕暮れの踏切、鳴り響く警報機、突き飛ばすようにして抱きかかえた少女の細い体。あの日、自分が無我夢中で助けた名も知らぬ少女。それが――冴島凪だったというのか。


「あの時、凛は私の目を見て言ったんだよ。『勝手に消えないで。私があなたを見るから』って……! なのに、凛は次の日には事故のショックで私の顔も忘れて、また『綺麗で完璧な一ノ瀬凛』に戻って、何事もなかったかのように過ごしてた!」


凪の指先が、凛の制服の襟元を強く引き寄せる。


「私を絶望から引きずり上げて『救った』のは凛だよ。なのに私を忘れて放置して、存在ごと置き去りにした! だから私は陸上も辞めて、凛が私を思い出すまで、凛のカメラに映り続けるしかなかったんだよ!」


突きつけられた圧倒的な真実。


救ったという行為そのものが、相手にとっては生殺しの地獄であり、執着の原点だった。凛は自分の歪んだ自己満足と忘却が、凪という少女の人生をどれほど深く狂わせていたかを知り、ただガタガタと震えることしかできなかった。


崩壊の音を立てて崩れ去る二人の日常。戻れない秋の深淵が、二人を完全に飲み込もうとしていた。

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