影る境界線
真夏のピークを過ぎた海辺の風は、夕刻を迎えるとともに急速にその熱を失い、湿った冷たさを帯び始めていた。
沈みゆく太陽が描く茜色の筋が空の端でグラデーションを描きながら薄れ、領域を広げる濃い群青色へと塗り潰されていく。波打ち際に座り込んだ凛と凪の影は、すでに砂浜の闇の中に深く溶け込み、どこからが誰の影なのか判別がつかなくなっていた。
潮が引いていく音だけが、ザザ、ザザと不気味なほど規則正しく耳の奥に届いている。
「……そろそろ、帰らないと。最後の電車の時間、なくなっちゃうよ」
凛は自分の声の震えを隠すように、ぽつりと呟いた。膝の上に置いた一眼レフカメラは、一日中海からの風と塩分に晒されたせイドで、金属の表面がうっすらと湿り気を帯びて冷たくなっている。その冷たさが、現実の時間へと連れ戻そうとする鎖のように凛の身体を固まらせていた。
凪は答えなかった。
ただ、裸足を砂の中に深く潜り込ませたまま、引き波が作る白い泡をぼんやりと見つめている。膝を抱える彼女の肩は驚くほど細く、さっきまで太陽の下で無邪気に弾けていた強い存在感が、夕闇に飲まれるように急速に薄れていくのが分かった。
「……凪?」
凛がもう一度呼びかけると、凪はゆっくりと首を横に振った。
「……帰りたくないな」
凪の声は、波の音にかき消されそうなほど低く、掠れていた。
「学校なんて、行きたくない。夏休みが終わったら、またあの教室で……凛が『みんなの一ノ瀬さん』に戻っちゃうのが目に見えてる。クラスの奴らに囲まれて、綺麗な笑顔振りまいて、誰にでも優しくノート貸して……私のことなんて、放課後の旧校舎の影に置き去りにしてさ」
「そんなこと、しないよ。私、言ったでしょ? 凪の前での私が、本当の私なんだって」
凛は思わず声を張り上げた。けれど、その言葉は凪の胸には届かないようだった。
「嘘だよ。凛はそういうヤツだもん。だって、そっちの方が凛にとって『都合がいい』から。みんなに愛されて、期待されて、良い子でいる方が楽だから。私といるのは……ただの気まぐれでしょ?」
「気まぐれなんかじゃない!」
「じゃあ証拠見せてよ!」
凪が激しい目つきで振り返った。
茜色の残光を僅かに反射する茶色い瞳。そこには、真夏の光の中で見せた柔らかい微笑みの欠片もなく、剥き出しの狂気と、底知れない恐怖が渦巻いていた。
凪の手が濡れた砂を払い、凛の制服の袖を掴んだ。砂粒の混ざった指先が、布地越しに凛の腕を強く締め上げる。骨が痛むほどの力。けれど凛は、その痛みに逃げ出すどころか、どこか安堵している自分に気づいていた。この痛みが、凪が自分を強く求めている証拠なのだと。
「私を救ったくせにさ……なんでそんな顔できるの?」
「え……?」
不意に投げかけられたその言葉に、凛の思考が完全に凍りついた。
救った? 自分が、凪を?
陸上を辞めて投げやりになっていた凪に声をかけたのは、ただ写真を撮る対象を探していたからだったはずだ。それなのに、凪の口から出た「救った」という言葉の重みに、凛の胸の奥で冷や汗が吹き出した。
「どういう……意味? 私、凪に何かした……?」
凛が問い詰めようと顔を近づけた瞬間、凪の瞳に走ったのは深い悲哀だった。
凪は凛の返答を拒絶するように首を横に振ると、掴んでいた手を不自然なほど急に離した。そして、何事もなかったかのようにすっと立ち上がり、ズボンについた濡れた砂を雑に払い落とした。
「……冗談だよ。忘れて」
「凪、待ってよ!」
「ほら、帰るんでしょ。置いてくよ」
凪は振り返ることもなく、裸足のまま靴を手に提げて、駅へと続く坂道の方へ歩き出していった。
凛は慌てて自分の靴を履き、カメラを強く抱きしめて立ち上がった。足元が狂ったようにぐらつき、胸の奥で嫌な予感の鐘がガンガンと鳴り響いていた。
凪の背中は、すでに夕闇の中に消えかかっている。
彼女が去り際に漏らした言葉の意味が、頭の中で何度も反芻された。救ったとは、どういう意味なのか。自分はただ、凪に頼られることで自分の歪んだ価値を確認していただけではないのか。自分たちの出会い以前に、何か自分も知らない理由が存在していたというのか。
問い詰めようと走って追いかけたが、凪の拒絶するような頑なな背中が、それ以上の接触を強く拒んでいた。
ふたりの影を引き裂くように、無人駅の踏切がカンカンと高く乾いた音を立てて鳴り始めた。
暗闇に包まれたホームに、二両編成のローカル線が滑り込んでくる。車内の眩しい蛍光灯の光が、二人の姿を無機質に照らし出した。
乗り込んだ車内で、ふたりは行きとは違って離れたボックス席に座った。
窓ガラスに映る凛の顔は、かつて見慣れた「完璧な優等生」の無感情な仮面に戻りつつあった。だが、その胸の奥では、夏休みの終わりとともに始まる崩壊の足音が、波音よりも高く響き渡っていた。




