汐風と群青の波打ち際
夏休みの終盤、照りつける日差しは刺すような痛みを帯びていた。
ローカル線の二両編成の電車は、乗客もまばらなままカタトコと揺れていた。ボックス席の向かい側に座る冴島凪は、車窓の外を流れる青々とした田園風景をぼんやりと眺めている。
凛は膝の上に置いた一眼レフのストラップをギュッと握りしめていた。
「『友達と一日出かけてくる』って言ったら、お母さん、すごく嬉しそうな顔をしてた」
ぽつりと漏らした言葉に、凪は窓から視線を戻し、くすりと笑った。
「そりゃそうでしょ。『完璧な一ノ瀬凛』が普通に友達と青春してるんだから。親にとっては願ったり叶ったりの状況じゃん」
「……相変わらず、言い方が最悪」
「本当のことだよ」
凪はポケットからいつもの駄菓子の箱を取り出し、慣れた手つきで口に放り込んだ。人工的なイチゴの香りが、古びた車両の冷房の風に乗ってふわりと漂う。
電車が目的地の無人駅に到着すると、扉が開いた瞬間に湿った海の匂いと強烈なセミの声が押し寄せてきた。改札を出て、アスファルトの坂道を下っていく。建物の隙間から、眩しいほどの青が視界に飛び込んできた。
観光地化されていない小さな海岸は、凪の言った通り誰もいなかった。
波打ち際には打ち上げられた海藻や流木が散乱し、強い日差しを浴びて砂浜がギラギラと白く光っている。波の音が、絶え間なく耳の奥を圧してくる。
「うわ、本当に誰もいないね」
「でしょ? ここ、昔たまに来てたんだよね」
凪は靴を脱ぎ捨てると、裸足のまま白い砂浜へと駆け出していった。波打ち際で立ち止まり、押し寄せる白い泡に足を浸す。風が強く吹き抜け、彼女の薄手の服と短めの黒髪を激しくなびかせた。
凛は少し遅れて靴を脱ぎ、砂の熱さを足裏に感じながら追いかけた。
「凪、服濡れるよ」
「いいよ、別に。冷たくて気持ちいいし」
凪は振り返り、両腕を大きく広げた。海からの強い反射光を受けて、彼女の瞳は琥珀色に透き通り、水滴の跳ねる肌が眩しいほど輝いて見えた。
「凛、撮ってよ」
校舎の密室ではない。開かれた、どこまでも広い世界。けれど、二人を囲む世界はどこまでも透明で、誰の目も届かない場所だった。
凛はカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。
いつもは暗い踊り場で陰影の中に沈んでいた凪が、今は強烈な太陽の光の下で鮮明に結像している。不機嫌そうな目元、風になびく黒髪、波と戯れる華奢な足先。
カシャ、カシャ、カシャ
連続してシャッターを切る。機械的な音が、波音に打ち消されながらも心地よく響いた。
「ねえ、凛もこっち来なよ」
凪が手招きする。凛が一歩近付くと、凪はイタズラっぽく笑い、足元で波を弾いて凛の足元へ水しぶきを飛ばしてきた。
「ちょっと! カメラにかかったらどうするの!」
「かかってないじゃん。……ほら、凛も裸足になりなよ」
強引に手を引っ張られ、凛は波打ち際へと引きずり込まれた。
足を洗う冷たい海水。熱を持った身体から、一気に熱が奪われていく。不意に押し寄せた大きな波に足を取られそうになり、凛は思わず凪の肩にしがみついた。
「きゃっ……」
「あはは、凛って運動神経イマイチだよね」
「……笑わないで」
至近距離で交わる視線。波の音に包まれながら、二人は互いの呼吸を感じていた。
凪の指先が、濡れた凛の前髪をそっとかき分ける。カサついた指先と、海水の冷たさ。けれど、その奥から伝わる凪の体温は、誰よりも熱く凛の肌に刻み込まれていく。
「凛さ」
「なに?」
「このまま、夏が終わらなきゃいいのにね」
ぽつりと漏らされた言葉。
普段は強がりばかり言っている凪の口から出た、あまりにも無防備で切実な願い。凛は胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
「……うん。終わらなきゃいいのに」
二人だけの夏。教室の重圧も、親の期待も、過去の傷も届かない、波打ち際という境界線。
凛はカメラを持ち上げ、肉眼で凪を見つめながら、至近距離でシャッターを押した。
カシャ。
液晶画面に映し出されたのは、波しぶきの中で柔らかく笑う凪の姿と、彼女の瞳に映る、見たこともない表情をした自分の姿だった。
夕刻が近づき、海はゆっくりと群青色へと染まっていく。二人は肩を並べて砂浜に座り込み、沈みゆく太陽を見つめていた。




