夏影の揺らぎ
激しかった夕立が嘘のように去り、旧校舎の踊り場には湿り気を含んだ静けさが戻っていた。
小窓から差し込む夕光は、湿ったコンクリートの床を鈍い朱色に染めている。嵐のような熱気と緊張感が通り過ぎた後、二人を包んでいたのは、どこか心地よい疲労感と静寂だった。
床に置かれた一眼レフカメラのレンズの曇りは、いつの間にか綺麗に消えていた。凛はそれをそっと持ち上げると、静かに電源を入れた。
「……動かないで」
膝を抱えたままぼんやりと外を眺めていた凪が、凛の声にゆっくりと視線を向けた。
ファインダーを覗き込む。
レンズの向こう側、濡れた髪が頬に張り付き、夕焼けの光を受けて琥珀色に透き通る凪の瞳。さっきまでの激しい執着や怯えは影を潜め、ただただ静かで、透明な存在感がそこにあった。
カシャ
機械的なシャッター音が、薄暗い踊り場に小さく響いた。
液晶画面を確認する。そこに映し出されていたのは、雨上がりの光の中で、どこか遠くを見つめる凪の姿だった。フィルター越しであっても、あるいは肉眼であっても、二人の間にある「何か」はもう誤魔化しようのない形をとっていた。
「綺麗に撮れた?」
凪が微かに口角を上げて尋ねてくる。
「……うん。すごく」
凛はカメラをバッグにしまわないまま、膝の上に抱えた。コンクリートの冷たさが、じわりとスカート越しに伝わってくる。
「ねえ、凪」
「なに?」
「私、夏休みが終わるのが……少し怖くなってきた」
凛は自分の指先を見つめながら、素直に口を開いた。普段の自分なら、絶対に誰にも漏らさない本音。
「夏休みが終わったら、またあの教室に戻らなきゃいけない。みんなの前で笑って、期待に応えて、完璧な一ノ瀬凛を演じて……。でも、もう前の自分には戻れない気がするの。凪とここでこうして過ごした時間を知っちゃったから」
完璧だった日常の仮面は、すでに目に見えないヒビが入っている。2学期が始まれば、そのヒビを隠しながら生きることは、これまで以上に過酷な作業になるはずだった。
凪は黙って凛の話を聞いていたが、やがてポケットからいつもの駄菓子の箱を取り出した。中の白い棒を一つきれいに取り出すと、凛の口元へ差し出してくる。
「食べる?」
「……これ、口の中乾くから嫌だって言ったのに」
「いいから」
強引に押し付けられ、凛は渋々それを口に含んだ。安っぽい人工的なイチゴの味が、舌の上でゆっくりと溶けていく。
「壊れちゃえばいいじゃん」
凪は事もなげに言った。
「その『完璧な一ノ瀬凛』ってやつ。崩れて、誰も味方がいなくなったらさ……私が全部もらってあげるよ」
凛は息を飲んだ。
無責任で、乱暴で、どこまでも独善的な提案。
けれど、その言葉は凛の胸の奥深くに、甘い毒のように染み渡っていった。もし自分がすべてを失ったとしても、この場所で自分を待ち続ける存在がいるという事実。それが、どれほど歪で危うい救いなのかを理解しながらも、凛は拒絶することができなかった。
「……凪は、本当にずるいね」
「よく言われる」
凪はいたずらっぽく笑うと、凛の隣に座り直し、そっと肩を寄せてきた。
触れ合う肩から伝わる体温は、先ほどの熱病のような過剰さはないものの、確かにそこにある存在感を主張していた。人工的なイチゴの香りが、雨上がりの濡れた土の匂いと混ざり合い、二人の間に漂う。
「ねえ、凛」
「ん……?」
「明日は、海に行こうよ」
「え……海?」
唐突な提案に、凛は目を丸くした。
「ここから電車で三十分くらいでしょ。誰もいない、汚い砂浜があるんだよね。そこでさ……凛のカメラで、私を撮ってよ」
校舎という閉ざされた密室から、外の世界へ。
一瞬の戸惑いの後、凛はゆっくりと頷いた。親に何と言って言い訳を作るか、クラスの誰かに見られたらどうするか、そんな懸念は一瞬で思考の片隅へ追いやられた。
「……うん。行こう、二人で」
外の雲が割れ、夕闇の空に一番星が微かに光り始めていた。
二人は手を重ね合わないまま、けれど互いの体温を逃さないように肩を寄せ合い、ただ静かに群青色へ変わっていく空を見上げていた。戻れない夏は、さらに深く、静かに加速していく。




