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指先で薄氷を割る  作者: 狐丸
レンズ越しの虚飾
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15/25

夏影の揺らぎ

激しかった夕立が嘘のように去り、旧校舎の踊り場には湿り気を含んだ静けさが戻っていた。


小窓から差し込む夕光は、湿ったコンクリートの床を鈍い朱色に染めている。嵐のような熱気と緊張感が通り過ぎた後、二人を包んでいたのは、どこか心地よい疲労感と静寂だった。


床に置かれた一眼レフカメラのレンズの曇りは、いつの間にか綺麗に消えていた。凛はそれをそっと持ち上げると、静かに電源を入れた。


「……動かないで」


膝を抱えたままぼんやりと外を眺めていた凪が、凛の声にゆっくりと視線を向けた。

ファインダーを覗き込む。


レンズの向こう側、濡れた髪が頬に張り付き、夕焼けの光を受けて琥珀色に透き通る凪の瞳。さっきまでの激しい執着や怯えは影を潜め、ただただ静かで、透明な存在感がそこにあった。


カシャ


機械的なシャッター音が、薄暗い踊り場に小さく響いた。


液晶画面を確認する。そこに映し出されていたのは、雨上がりの光の中で、どこか遠くを見つめる凪の姿だった。フィルター越しであっても、あるいは肉眼であっても、二人の間にある「何か」はもう誤魔化しようのない形をとっていた。


「綺麗に撮れた?」


凪が微かに口角を上げて尋ねてくる。


「……うん。すごく」


凛はカメラをバッグにしまわないまま、膝の上に抱えた。コンクリートの冷たさが、じわりとスカート越しに伝わってくる。


「ねえ、凪」


「なに?」


「私、夏休みが終わるのが……少し怖くなってきた」


凛は自分の指先を見つめながら、素直に口を開いた。普段の自分なら、絶対に誰にも漏らさない本音。


「夏休みが終わったら、またあの教室に戻らなきゃいけない。みんなの前で笑って、期待に応えて、完璧な一ノ瀬凛を演じて……。でも、もう前の自分には戻れない気がするの。凪とここでこうして過ごした時間を知っちゃったから」


完璧だった日常の仮面は、すでに目に見えないヒビが入っている。2学期が始まれば、そのヒビを隠しながら生きることは、これまで以上に過酷な作業になるはずだった。


凪は黙って凛の話を聞いていたが、やがてポケットからいつもの駄菓子の箱を取り出した。中の白い棒を一つきれいに取り出すと、凛の口元へ差し出してくる。


「食べる?」


「……これ、口の中乾くから嫌だって言ったのに」


「いいから」


強引に押し付けられ、凛は渋々それを口に含んだ。安っぽい人工的なイチゴの味が、舌の上でゆっくりと溶けていく。


「壊れちゃえばいいじゃん」


凪は事もなげに言った。


「その『完璧な一ノ瀬凛』ってやつ。崩れて、誰も味方がいなくなったらさ……私が全部もらってあげるよ」


凛は息を飲んだ。

無責任で、乱暴で、どこまでも独善的な提案。

けれど、その言葉は凛の胸の奥深くに、甘い毒のように染み渡っていった。もし自分がすべてを失ったとしても、この場所で自分を待ち続ける存在がいるという事実。それが、どれほど歪で危うい救いなのかを理解しながらも、凛は拒絶することができなかった。


「……凪は、本当にずるいね」


「よく言われる」


凪はいたずらっぽく笑うと、凛の隣に座り直し、そっと肩を寄せてきた。


触れ合う肩から伝わる体温は、先ほどの熱病のような過剰さはないものの、確かにそこにある存在感を主張していた。人工的なイチゴの香りが、雨上がりの濡れた土の匂いと混ざり合い、二人の間に漂う。


「ねえ、凛」


「ん……?」


「明日は、海に行こうよ」


「え……海?」


唐突な提案に、凛は目を丸くした。


「ここから電車で三十分くらいでしょ。誰もいない、汚い砂浜があるんだよね。そこでさ……凛のカメラで、私を撮ってよ」


校舎という閉ざされた密室から、外の世界へ。

一瞬の戸惑いの後、凛はゆっくりと頷いた。親に何と言って言い訳を作るか、クラスの誰かに見られたらどうするか、そんな懸念は一瞬で思考の片隅へ追いやられた。


「……うん。行こう、二人で」


外の雲が割れ、夕闇の空に一番星が微かに光り始めていた。


二人は手を重ね合わないまま、けれど互いの体温を逃さないように肩を寄せ合い、ただ静かに群青色へ変わっていく空を見上げていた。戻れない夏は、さらに深く、静かに加速していく。

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