肌を滑る水滴
夕立の勢いは一向に衰える気配を見せず、鉄の扉の向こうで滝のような音を立てて打ちつけ続けていた。
踊り場の中は、二人の荒い息遣いと、濡れた制服が吸い込んだ湿気で飽和している。
「……ねえ、凛」
凛の肩に顔をうずめたまま、凪が低く掠れた声で呟いた。背中に回された凪の腕は力強く、凛をその場に繋ぎ止める鎖のように固い。
「なに……?」
「冷たい。服、濡れて気持ち悪い」
そう言って、凪はゆっくりと身体を離した。夕闇と雨雲で薄暗くなった踊り場で、凪の胸元に目が留まる。急な夕立で濡れた白いTシャツはうっすらと肌に張り付き、鎖骨の綺麗なラインを浮き上がらせていた。額から落ちた雨粒が、彼女の細い首筋をゆっくりと滑り落ちていく。
凛はゴクリと息を飲んだ。
ファインダーを挟まない肉眼での距離感に、胸の奥が不自然なほど激しく脈打つ。カメラという「一枚のフィルター」があるからこそ保てていた安全圏が、この狭い踊り場と雨の密室によって易々と取り払われていく感覚。
「写真、撮らないの?」
凪が首を傾げ、挑戦的な笑みを浮かべた。熱でわずかに赤くなった頬と、濡れた黒髪。
「……撮る」
凛は慌てて一眼レフを構え直した。だが、ファインダーを覗き込もうとした瞬間、レンズの表面が白く曇っていることに気づいた。外の豪雨と、二人の体温の上昇が生み出した湿気が、ガラスを覆ってしまっていたのだ。
「あ……曇ってる」
「ふーん。じゃあ、撮れないね」
凪は満足そうに口角を上げると、凛の手からカメラをそっと取り上げ、コンクリートの床へと置いた。金属が鈍い音を立てる。
「ちょっと、大事なカメラなのに……」
「いいじゃん、今はカメラなんて。……ねえ、フィルターなしで私を見てよ」
凪が膝立ちになり、凛の顔を両手で包み込んできた。冷え切った指先と、火照った手のひらの熱が同時に凛の頬に伝えられる。
息ができるかどうかの距離。凪の茶色い瞳の中に、見たこともないほど動揺し、赤くなっている自分の顔がハッキリと映り込んでいた。
「凛の目ってさ、こうして見るとすごく綺麗な茶色してるんだね」
「……そんなの、見つめられたことないから分からない」
「私が最初で最後でしょ? クラスの誰も、凛のこんな顔見たことないもんね」
凪の指先が、凛の頬から唇の端へ、そして顎へと滑り落ちていく。その一筋の軌跡を追うように、凛の全身に小さな悪寒のような戦慄が走った。
優等生として生きてきた「一ノ瀬凛」の境界線が、凪の指先一つで簡単に溶かされていく。親からの期待も、学校での評価も、ここには何一つ存在しない。あるのはただ、雨の匂いと、目の前の少女の体温だけだ。
「……凪は、ずるい」
「何が?」
「私をこんな風にしておいて、自分だけ余裕そうな顔して」
凛は震える手を伸ばし、凪の濡れた髪をかき上げた。露わになった凪の額に、自分の額をそっと押し当てる。直に伝わる熱。二人の吐息が交じり合い、安っぽいイチゴの甘い香りが、雨の匂いを塗り潰していく。
「余裕なんてないよ」
凪がぽつりと漏らした。その声は、雨音に消されそうなほど小さく、脆かった。
「怖くてたまらないよ。凛がこの雨が止んだら、またあの『綺麗で完璧な一ノ瀬凛』に戻っちゃうのが。……私を置いて、明るい場所に出て行っちゃうのが」
「行かないって……さっき言ったでしょ」
「言葉だけじゃ信じられない。もっと……私だけのものだって証拠が欲しい」
凪の腕が再び凛の首に回され、ぐっと強く抱き寄せられた。互いの鼓動が、骨を通じてダイレクトに響き合う。どっちがどっちの鼓動なのか分からなくなるほど、激しく、速く。
外の雨は一向に弱まる気配を見せない。
ガラスの曇ったカメラは、床の上で静かに二人の影を反射していた。フィルターを失った二人は、互いの肌と熱だけを頼りに、夜の深淵へとさらに深く落ちていくのだった。




