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第八十五話 もう一人

保管庫は静かだった。


 カイは紙を見つめている。


『黒は人を侵食しない』


『人が黒へ侵食される』


 短い文章。


 だが妙に頭へ残る。


 意味は分からない。


 だが。


 何か重要な気がした。


 タマは黙っていた。


 赤い目だけがこちらを見ている。


「知ってるのか」


 聞く。


 返事はない。


 当然だった。


 だが。


 タマはゆっくり歩き出した。


 保管庫の奥。


 さらに奥。


 行き止まりだった。


 壁。


 何もない。


 普通なら。


「……?」


 タマは止まらない。


 壁へ近付く。


 そして座る。


 見上げる。


 まるで何かがあるみたいに。


 カイは眉をひそめた。


 構造接続。


 意識を向ける。


 壁。


 鉄筋。


 空洞。


 さらに奥。


 そこに。


 空間があった。


「隠してるのか」


 手を伸ばす。


 壁ではない。


 偽装だった。


 押す。


 鈍い音。


 古いロックが外れる。


 壁が開いた。


 冷たい空気が流れてくる。


 暗い通路。


 タマは迷わず進む。


 カイも続いた。


 通路は長かった。


 上の研究施設より古い。


 埃が積もっている。


 誰も使っていない。


 そんな場所だった。


 やがて。


 広い空間へ出る。


 カイは足を止めた。


「……何だよ」


 部屋の中央。


 巨大な培養槽。


 天井まで届くほど大きい。


 配管が無数に繋がっている。


 機械はまだ動いていた。


 低い駆動音。


 微かな光。


 生きている。


 そう見えた。


 そして。


 中に人がいた。


 男だった。


 黒い髪。


 痩せた身体。


 閉じた目。


 液体の中を漂っている。


 カイは動けなかった。


 見覚えがあった。


 いや。


 違う。


 見覚えどころじゃない。


 それは。


 自分だった。


「……」


 言葉が出ない。


 培養槽の中。


 もう一人のカイがいた。


 同じ顔。


 同じ身体。


 同じ傷。


 鏡じゃない。


 本物だった。


 タマは培養槽の前へ行く。


 座る。


 ずっと前からそこにいたみたいに。


 静かだった。


 カイは近付く。


 ガラスへ触れる。


 冷たい。


 生きているのか。


 死んでいるのか。


 分からない。


 その時だった。


 端末が起動する。


 古いモニター。


 ノイズ。


 映像。


 白衣の研究員が映った。


『記録番号776』


 男が言う。


『最終分離実験報告』


 カイは画面を見る。


『被検体776』


『接続率100%確認』


『制御不能』


 研究員は疲れた顔をしていた。


『二核分離を実施』


 画面が切り替わる。


 資料。


 人体図。


 二つの核。


 一本の線で繋がっている。


『黒核』


『人核』


 文字が並ぶ。


『接続維持に成功』


『分離維持に成功』


 研究員は少し黙った。


 そして続ける。


『だが予想外が発生した』


 映像が変わる。


 幼い776。


 手術台。


 大量の機械。


『人核側個体』


『生命反応停止』


 カイは目を細める。


 映像の中の自分。


 死んでいた。


 心拍停止。


 研究員達が騒いでいる。


『実験失敗』


『処分予定』


 その直後。


 警報。


 研究所全体が揺れる。


 映像が乱れる。


『接続異常発生』


『黒核との再接続確認』


 研究員が叫ぶ。


『何だこれは!?』


 画面が激しく乱れる。


 数値が跳ね上がる。


 生命反応。


 復活。


 死んでいたはずの個体が動き出す。


『生存確認』


『理由不明』


『接続維持』


 研究員は絶句していた。


『二核間でエネルギー移動を確認』


『理論外』


 ノイズ。


 映像が止まる。


 最後。


 研究員がカメラを見る。


『我々は失敗した』


『776はもう制御できない』


 そこで映像が終わった。


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 カイは培養槽を見る。


 もう一人の自分を見る。


 死んだはずだった。


 処分されるはずだった。


 だが生きている。


 いや。


 生かされている。


 そして。


 足元を見る。


 タマ。


 赤い目。


 培養槽。


 自分。


 全部が繋がり始める。


 その時だった。


 培養槽の中の男の指が動いた。


 ほんの僅か。


 本当に僅かだった。


 だが確かに動いた。


 カイは固まる。


 次の瞬間。


 培養槽全体に光が走る。


 警報。


 赤いランプ。


 機械音声。


『被検体776確認』


『統合プロトコル準備開始』


 タマが立ち上がる。


 初めてだった。


 怯えたような顔をしたのは。


 そして。


 カイを見た。


 赤い目で。


 真っ直ぐに。


 まるで。


 別れを覚悟しているみたいに。


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