第八十三話 被検体776
扉の向こうは静かだった。
研究所だった。
だが今まで見てきた場所とは違う。
広い。
異様なほど広い。
天井は高く、壁は白い。
照明は落ちている。
非常灯だけが赤く点滅していた。
カイはゆっくり中へ入る。
足音が響く。
タマも続く。
部屋の中央。
巨大な円形施設があった。
ガラス。
金属。
配管。
見たこともない装置。
その全てが一つの場所へ繋がっていた。
中央。
巨大な培養槽。
空だった。
何も入っていない。
だが。
カイは足を止める。
嫌な予感がした。
理由は分からない。
ただ。
知っている気がした。
見たこともないはずなのに。
胸がざわつく。
タマは培養槽を見上げていた。
赤い目が揺れている。
初めてだった。
感情みたいなものが見えたのは。
「……お前」
問い掛ける。
返事はない。
だが。
タマは目を逸らさなかった。
まるで何かを思い出しているみたいだった。
その時だった。
電子音が鳴る。
古い端末。
自動起動。
長い間誰も触っていないはずだった。
モニターが点灯する。
砂嵐。
ノイズ。
そして映像。
研究員だった。
白衣。
疲れた顔。
目の下には隈がある。
録画映像だった。
『記録番号776』
男が言う。
『最終記録を開始する』
カイは動かない。
映像を見る。
研究員は少し黙った。
何かを迷っているようだった。
『本計画は失敗した』
静かな声だった。
『少なくとも我々はそう判断した』
画面が切り替わる。
資料。
実験記録。
死亡者数。
大量だった。
数字が並ぶ。
失敗。
失敗。
失敗。
失敗。
失敗。
赤文字。
中止。
廃棄。
終了。
その中で。
一つだけ。
776。
それだけが違った。
『被検体776』
『生存』
空気が止まる。
カイは画面を見る。
研究員も画面を見る。
『本来なら存在してはならない個体』
『想定外の結果』
男は目を閉じる。
疲れていた。
絶望していた。
そんな顔だった。
『我々は失敗した』
『だが失敗は終わらなかった』
ノイズが走る。
映像が乱れる。
そして。
一枚の写真が映し出された。
幼い少年。
手術台。
拘束具。
腕に付いた番号。
776。
カイの呼吸が止まる。
自分だった。
間違いない。
幼い頃の自分だった。
記憶には無い。
だが分かる。
自分だった。
『記録を残す』
研究員が言う。
『もし誰かがここへ辿り着いたなら』
そこで言葉が止まる。
映像の向こう。
誰かがいる。
研究員はその方向を見る。
恐怖。
明確な恐怖だった。
『来た』
声が震える。
『もう時間がない』
警報が鳴り始める。
赤い光。
ノイズ。
研究員が何か叫ぶ。
聞き取れない。
映像が乱れる。
そして。
最後。
研究員はカメラを見る。
真っ直ぐ。
まるでカイを見ているみたいに。
ノイズ。
画面が揺れる。
そこで映像が切れた。
真っ暗になる。
沈黙。
長い沈黙だった。
カイは動かない。
頭の中で言葉が反響している。
776。
生存。
失敗。
そして。
タマ。
足元を見る。
黒い犬。
赤い目。
いつも通りだった。
だが。
今は違う。
初めて思った。
こいつは何だ。
本当に何なんだ。
タマは黙っていた。
そして。
培養槽を見上げる。
その視線の先。
ガラスの向こう。
壁に何かがあった。
数字。
大きな文字。
古びた塗装。
消されかけている。
それでも読めた。
被検体計画
第五世代
その下。
さらに大きく。
ただ一文字。
黒。
カイはその文字を見る。
胸が強く脈打つ。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
答えはまだ遠かった。
だが。
確実に近付いていた。




