第八話 スラム
朝。
スラム。
カイは仕事を与えられた。
「キール手伝ってこい」
「誰」
「会えば分かる」
首が痛い。
肩はもっと痛かった。
黒コートとの戦闘で受けた傷が、まだ鈍く疼いている。
横を見る。
タマが丸くなっていた。
耳だけが動く。
「起きろ」
返事はない。
当然だった。
カイは立ち上がった。
背中が鳴る。
ポケットを探る。
金は少し。
端末はない。
舌打ちした。
リーもワンもいない。
昨日まで当たり前だったことが、少しずつ現実になっていく。
考えるのをやめた。
腹が減っていた。
歩く。
スラムは近かった。
排水の臭い。
油。
煙草。
全部混ざった匂いがする。
入口の鉄柵には落書きが増えていた。
奥には人がいる。
誰も急がない。
誰も怯えない。
妙に落ち着いた空気だった。
「兄さん」
声が飛んできた。
ドラム缶の火の横。
短髪の男が座っている。
五十代くらい。
煙草を咥えたまま椅子を逆にして座っていた。
レイドだった。
何も言わずに端末を放る。
反射で掴む。
スマホだった。
画面にはヒビが入っている。
「使え」
「返す」
「壊れたら捨てろ」
それだけだった。
煙草を吸う。
「何で」
「死にそうな顔してるからだ」
「優しいな」
「勘違いするな」
煙を吐く。
「連絡取れる道具は持っとけ」
カイはスマホをポケットへ入れた。
レイドの視線が下へ落ちる。
タマだった。
黒い犬。
赤い目。
数秒。
煙草だけが短くなる。
タマはレイドを見ていた。
レイドも見ていた。
先に視線を逸らしたのはレイドだった。
「寝床代は仕事で払え」
「安いな」
「高いぞ」
レイドは鼻で笑った。
「飯食うか」
「食う」
即答だった。
レイドが吹き出した。
「そういうとこは元気だな」
スラムの奥へ案内される。
歩く。
途中。
井戸の周りに人が集まっていた。
正確には井戸ではない。
古い浄水設備だった。
茶色い水。
誰が見ても飲めない。
その前に男がいた。
小柄。
四十代くらい。
薄汚れた作業服。
無精髭。
機嫌の悪そうな顔。
周囲の住民が容器を持って並んでいる。
「キール」
レイドが呼ぶ。
「客だ」
「見りゃ分かる」
キールは面倒そうに答えた。
そして汚れた水へ手を入れる。
数秒。
水が変わった。
茶色が消える。
透明になる。
周囲の住民が容器へ汲み始める。
カイの足が止まった。
目が離れない。
「何だそれ」
「能力」
キールが即答する。
「便利だろ」
「もう一回やれ」
キールが顔をしかめた。
「は?」
「もう一回」
「嫌だ」
「頼む」
「嫌だ」
「金払う」
「いくら」
「千」
「安い」
結局やった。
キールは現金に弱かった。
泥水を持ってくる。
浄化する。
透明になる。
カイは黙って見ていた。
「もう一回」
「まだやるのか」
「油入れろ」
「何でだよ」
「いいから」
住民が笑う。
キールは嫌そうな顔で油を垂らした。
浄化。
失敗。
油だけ浮いた。
「もう一回」
「帰れ」
「砂」
砂を入れる。
浄化。
成功。
透明になる。
カイの目が細くなる。
「血」
「何で持ってんだ」
「さっき怪我した」
指を切る。
血を落とす。
浄化。
半分だけ。
色が残る。
そこで。
カイの意識が沈んだ。
周囲の声が消える。
風も聞こえない。
見る。
水。
油。
砂。
血。
違う。
油。
残る。
砂。
通る。
血。
残る。
混ざる。
沈む。
浮く。
違う。
綺麗にしてるんじゃない。
分けてる。
分離。
沈殿。
残留。
能力。
そこだった。
「なるほど」
気付けば口から出ていた。
キールが眉をひそめる。
「何がだ」
「お前」
カイは浄化された水を見る。
「水を綺麗にしてるんじゃない」
「混ざってるものを分けてる」
沈黙。
キールが固まった。
「……は?」
「だから油が残る」
指差す。
「砂は通る」
「血は残る」
キールは水を見る。
油を見る。
血を見る。
数秒。
本気で考える。
「……知らなかった」
「は?」
今度はカイが固まる。
「お前の能力だろ」
「いや」
キールは頭を掻いた。
「考えたことなかった」
周囲の住民が笑い出した。
「お前知らなかったのかよ」
「十年以上使ってるだろ」
「うるせえ」
キールが怒鳴る。
だが少しだけ楽しそうだった。
カイは浄化された水を見る。
透明だった。
能力。
異常。
ルール。
必ずある。
それが少しだけ分かった。
ほんの少し。
それだけだった。
だが。
少しだけ面白かった。
タマが隣へ来る。
黒い耳が揺れる。
スラムの空気は相変わらず汚かった。
けれど昨日よりは少しだけ居心地が良かった。




