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第七十話 店じまい

西地区を出る頃には、夜が深くなっていた。


 カイの頭痛はまだ残っている。


 視界も少し揺れていた。


 だが歩けないほどではない。


 前を歩くタリムの背中を見ながら、ゆっくり後を追った。


 老人は何も言わない。


 血も止まっていない。


 口元から流れた血が服を汚している。


 それなのに平然と歩いていた。


 まるで風邪でも引いたみたいな顔だった。


「おい」


 カイが呼ぶ。


 タリムは振り返らない。


「何だ」


「どこ行く」


「店だ」


 予想通りの返答だった。


 カイは少しだけ笑った。


「本当に魚屋なんだな」


「ああ」


 即答だった。


 それ以上の説明はない。


 魚屋だった。


 それだけだった。


 しばらく歩く。


 夜風が吹く。


 市場は閉まっている。


 昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。


 魚屋街へ入る。


 閉じたシャッターが並んでいる。


 その一角でタリムが足を止めた。


 見慣れた店だった。


 本日休業。


 貼り紙はまだ残っている。


 タリムは鍵を開けた。


 店内へ入る。


 カイも続いた。


 魚の匂いがする。


 冷蔵庫。


 作業台。


 包丁。


 秤。


 どこにでもある魚屋だった。


 世界を切る化け物の店には見えない。


 タリムは包丁袋を下ろした。


 作業台へ置く。


 そして冷蔵庫から水を取り出した。


 一口飲む。


 血が混ざった。


「最悪だな」


 本人が言った。


 少しだけ笑っている。


 カイは椅子へ腰掛けた。


 頭が重い。


 まだ気持ち悪い。


「五番って何だ」


 聞く。


 タリムは水を飲みながら答えた。


「入口までは行った」


「通れねえ」


 タリムは本気だった。


「俺は持ってねえ」


「何を」


タリム、タマを見る。


「切っちまってる」


「黒いの」


「先は知らねえ」


 静かな声だった。


「答えを見たわけじゃない」


 カイは黙る。


 少しだけ分かった。


 タリムも知らない。


 だから追っている。


 だから命令違反を繰り返した。


 だからここまで来た。


 魚屋の老人も結局、自分と同じだった。


 知りたい側の人間だった。


「だったら何で」


 カイが言う。


「俺に付いてきた」


 タリムは少しだけ考えた。


 そして答える。


「気になった」


「お前らなら、先に進めそうでな」


「そればっかだな」


「十分だ」


 カイは笑う。


 否定できなかった。


 自分も同じだからだ。


 気になる。


 だから追う。


 だから調べる。


 だから危険な場所へ行く。


 結局それだけだった。


 その時だった。


 タリムの身体が僅かに揺れた。


 作業台へ手をつく。


 血が落ちる。


 床へ赤い染みが広がった。


「おい」


 カイが立ち上がる。


「うるさい」


 タリムは答えた。


「死にそうだぞ」


「そうだな」


 否定しなかった。


 それが妙に腹立たしかった。


 タリムは壁へ背中を預ける。


 ゆっくり座り込んだ。


 呼吸が浅い。


 顔色も悪い。


 もう誰が見ても分かる。


 長くない。


 カイは近付く。


 だが何を言えばいいか分からなかった。


 リーの時も。


 ワンの時も。


 結局何も言えなかった。


 今も同じだった。


 タリムはそんなカイを見ていた。


 少しだけ笑う。


「お前」


 カイは顔を上げる。


「人ばかり見てるな」


 意味が分からなかった。


「魚も」


 タリムが続ける。


「怪物も」


「因子も」


「死体も」


「全部見てる」


 確かにそうだった。


 観察する。


 理解する。


 それが自分だった。


 タリムは咳き込む。


 血が零れる。


 それでも言葉を続けた。


「全部外だ」


 カイは黙って聞く。


「一番見てねえのは自分だ」


 その言葉だけは胸に残った。


 反論できない。


 今まで考えたこともなかった。


 自分自身を観察する。


 そんな発想はなかった。


 タリムはゆっくり目を閉じる。


 呼吸が少しずつ弱くなっていた。


「お前の中にある」


 掠れた声だった。


「見ろ」


 短かった。


 それだけだった。


 カイは待った。


 続きがあると思った。


 だが無かった。


 魚屋は静かだった。


 冷蔵庫の音だけが聞こえている。


 タリムはもう動かなかった。


 カイはしばらく座ったままだった。


 時間の感覚もなかった。


 やがて立ち上がる。


 店の奥へ向かう。


 古い洗面台があった。


 その上に鏡がある。


 何気なく顔を上げる。


 自分が映っていた。


 傷だらけだった。


 疲れている。


 目の下には隈がある。


 酷い顔だった。


 だが。


 初めてだった。


 他人じゃない。


 怪物でもない。


 因子でもない。


 自分自身を見たのは。


 鏡の中の自分もこちらを見ている。


 タマが隣へ来た。


 赤い目が鏡へ映る。


 カイは視線を逸らさなかった。


 魚屋の言葉が頭の中で繰り返される。


 ――自分を見ろ。


 夜は静かだった。


 そして。


 カイは初めて、自分自身へ視線を向けた。

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