第六十九話 見えた
ミックは片膝をついたまま立ち上がった。
右足を引きずっている。
額から血が流れていた。
それでも目だけは死んでいない。
ドローンは残り一機。
メニーも肩へ戻っている。
誰が見ても追い詰められていた。
それなのに。
カイはミックよりタリムを見ていた。
違和感があった。
口元。
血。
さっきから増えている。
ミックは気付いていない。
カイだけが見ていた。
「お前」
カイが言う。
タリムは答えない。
「何した」
「見てただろ」
「見えねえ」
即答だった。
タリムは少しだけ笑う。
その笑い方が気に入らなかった。
見えている人間の顔だった。
ミックも立ち上がる。
拳銃を構える。
腕が震えていた。
「ふざけるな」
怒りだった。
恐怖だった。
理解できないものへの拒絶だった。
「切れるわけない」
タリムは答えない。
代わりに包丁袋へ手を添える。
その瞬間。
カイの中で何かが引っ掛かった。
まただ。
同じ感覚。
列車。
290。
黒霧。
今まで何度も感じた。
理解できそうで出来ない時の感覚。
胸の奥が熱くなる。
世界が少し遠くなる。
視線がタリムへ固定される。
見る。
観察する。
理解する。
もっと。
もっと。
もっと。
頭の奥が軋む。
視界が狭くなる。
周囲の音が消える。
ミック。
ドローン。
風。
瓦礫。
全部遠くなる。
タリムだけが残る。
見る。
見る。
見る。
その瞬間だった。
見えた。
何か。
細い線。
糸。
違う。
もっと曖昧な何か。
ミックへ繋がっている。
周囲へ広がっている。
見えたと思った瞬間。
タリムの指先が動いた。
切れる。
その感覚だけが伝わる。
ブツリ。
本当にそんな音が聞こえた気がした。
次の瞬間。
世界が戻る。
視界が揺れる。
「っ……!」
激痛だった。
頭の奥を針で掻き回されたみたいだった。
膝が折れる。
地面へ手をつく。
吐き気。
耳鳴り。
呼吸が浅くなる。
何だ今の。
何を見た。
何だった。
線。
切断。
違う。
分からない。
理解できない。
理解できないことが理解できる。
初めてだった。
ミックが発砲する。
銃声。
弾丸。
だが。
引き金が途中で止まる。
薬莢が噛んだ。
不発。
ミックの顔が歪む。
「またかよ!」
叫ぶ。
ドローンが援護射撃を開始する。
直後。
機体が大きく揺れた。
通信エラー。
警告音。
墜落。
地面へ激突する。
爆発。
煙。
火花。
残った戦力が消えた。
ミックが動きを止める。
理解した。
勝てない。
今の自分では。
タリムを見る。
そして。
初めて異変に気付いた。
「……お前」
タリムの口から血が流れている。
服も赤い。
足元へ滴っていた。
ミックの顔色が変わる。
「何だそれ」
タリムは答えない。
代わりに咳き込む。
血が落ちる。
カイも見ていた。
分かった。
代償だ。
今の能力には代償がある。
ミックも同じ結論へ辿り着いたらしい。
数秒。
沈黙。
やがてミックは拳銃を下ろした。
「馬鹿か」
小さく言う。
「本当に馬鹿だな」
タリムは笑う。
「知ってる」
その返答だけで十分だった。
ミックは振り返る。
「その吐血量じゃ助からない」
「ヤケクソには付き合わない」
メニーが肩へ降りる。
「行くぞ」
インコが鳴く。
ミックは歩き出した。
もう戦う気はなかった。
勝ったからじゃない。
負けたからでもない。
その先が見えたからだった。
タリムは長くない。
中央へ報告すれば終わる。
そう判断した。
やがてミックの姿が遠ざかる。
カイはまだ立てなかった。
頭が痛い。
気持ち悪い。
考えられない。
視界も揺れている。
タリムが近付いてくる。
足音は小さかった。
魚屋の老人のままだった。
「見えたか」
カイは顔を上げる。
数秒考える。
だが言葉が出ない。
それでも答える。
「少しだけ」
タリムは笑った。
「俺はここまでだ」
「何言ってる、すぐ病院行くぞ」
「この程度の血を吐くくらいなら何度もあった」
「深い」
「概念ってのはここまでのもんか」
どこか満足そうな顔だった。
「そうか」
風が吹く。
西地区の空は曇っていた。
タリムは空を見上げる。
そして。
静かに言った。
「自分を見ろ」
カイは眉をひそめる。
「何だそれ」
意味が分からない。
だが。
聞き返しても答えはなかった。
タリムは歩き出す。
背中が遠ざかる。
小さい。
今まで見た誰よりも小さい。
なのに。
その背中だけが妙に大きく見えた。
カイは立ち上がれなかった。
頭の奥にはまだ残っている。
あの一瞬。
あの線。
あの切断。
理解できなかった現象。
初めて理解できなかったもの。
その感覚だけが消えなかった。




