第七十一話 鏡
鏡の中。
自分がこちらを見ている。
――自分を見ろ。
タリムの声がまだ残っていた。
カイは目を逸らさない。
「自分を見ろ、か」
意味が分からない。
だが気になる。
カイは鏡の前に立った。
じっと自分を見る。
顔。
首。
肩。
腕。
何も変わらない。
普通だ。
だが。
胸の奥に違和感があった。
構造接続。
意識が沈む。
呼吸。
鼓動。
血流。
筋肉。
神経。
少しずつ見えてくる。
今までと違う。
相手ではない。
怪物でもない。
自分だった。
胸。
さらに奥。
心臓。
肺。
違う。
もっと奥。
もっと深く。
黒い。
何かがある。
「……何だ」
思わず呟く。
生物ではない。
機械でもない。
説明できない。
だが存在している。
そこにある。
確かにある。
意識を向ける。
もっと。
もっと近付く。
その瞬間だった。
視界が揺れる。
白。
天井。
光。
拘束具。
薬品の匂い。
研究員。
誰かが喋っている。
『被検体――』
声。
『776――』
数字。
白衣。
警告音。
黒い霧。
激しい頭痛が走った。
「っ!」
カイは鏡へ手をつく。
呼吸が乱れる。
視界が滲む。
映像は消えていた。
洗面所。
鏡。
カイは鏡の中の自分を見る。
今まで見ていたようで。
何も見ていなかった。
初めてだった。
自分自身が調査対象になったのは。
「……ん?」
鏡の端。
紙が一枚挟まっていた。
古い紙。
乱暴な字。
見覚えがある。
タリムだった。
カイは紙を抜く。
書かれていたのは一行だけ。
――五番を見るな。
カイはしばらくそれを見る。
そして。
「遅えよ」
鏡の中。
タマの赤い目だけがこちらを見ていた。
第72話 帰る場所
魚屋の前に停まった車から降りてきたのはメルだった。
いつもの軽薄そうな笑顔はない。
珍しく真面目な顔をしている。
その後ろから、背の高い男が降りてきた。
エストだった。
白髪混じりの髪。
黒いコート。
眠そうな目。
だが裏社会を知る人間なら誰でも名前を知っている男だった。
カイは店の入口にもたれたまま二人を見る。
「何だ」
「迎え」
メルが即答した。
「帰れ」
「無理」
エストが魚屋の中を見る。
視線はタリムで止まった。
数秒。
何も言わない。
やがて小さく息を吐く。
「死んだか」
「ああ」
それだけだった。
長い付き合いだったわけではない。
だがエストの顔には少しだけ疲れが見えた。
知り合いが一人減った。
そんな顔だった。
「管理局は?」
カイが聞く。
「あと一時間もすれば来る」
エストが答える。
「監視ドローンも飛び始めてる」
メルが端末を見せる。
画面には複数の赤点。
魚屋周辺へ集まり始めていた。
「魚屋の主人が死んだ程度なら来ない」
エストが言う。
「だがタリムが死んだとなれば別だ」
カイは黙る。
それは分かる。
NO22。
管理局が放置する存在じゃない。
「お前も探される」
エストが続ける。
「行くぞ」
カイは振り返る。
店内。
冷蔵庫。
作業台。
包丁。
そしてタリム。
昨日まで生きていた男。
今は動かない。
少しだけ胸の奥が重くなる。
だが残る理由にはならなかった。
タリムなら残らない。
そう思った。
タマが立ち上がる。
黒い耳が揺れた。
まるで同意しているみたいだった。
エストが小さく笑う。
「相変わらずだな」
「何が」
「立ち直りが早い」
「違う」
カイは魚屋を見る。
「考えてるだけだ」
エストは何も言わなかった。
その答えがカイらしいと思った。
車へ乗る。
メルが運転席。
エストが助手席。
カイは後ろだった。
タマも当然のように乗っている。
窓の外。
第4都市が流れていく。
市場。
高架。
工場。
廃ビル。
全部見慣れた景色だった。
しばらく誰も喋らない。
やがてエストが口を開いた。
「タリムは何か言ったか」
「自分を見ろ」
エストは少し黙った。
「あの爺さんらしいな」
「意味分かるのか」
「いや」
「だが、無意味なことは言わん」
カイは続きを待つ。
だがエストは話さない。
代わりに聞いてきた。
「構造接続やっただろう」
カイは少しだけ驚く。
「何で分かる」
「顔色」
エストは振り返らない。
「あと目」
「最悪だな」
「かなりな」
メルが笑った。
「三日くらい徹夜した人みたいだったよ」
「そうか」
「そうだよ」
カイは窓へ視線を戻した。
頭痛はまだ残っている。
タリムとミックの戦い。
あの時見えた線。
切断。
あれを思い出そうとすると頭が痛む。
エストが静かに言う。
「何を見た」
車内が少し静かになる。
カイは考える。
説明できない。
それでも言葉を探した。
「線だ」
エストの目が僅かに細くなる。
「何の」
「分からん」
正直に答える。
「でも切れた」
沈黙。
メルも笑わなくなった。
車だけが走る。
しばらくしてエストが言った。
「忘れろ」
「無理だな」
「だろうな」
その返答に少しだけ諦めが混じっていた。
やがて車は古いアパート街へ入る。
カイが住んでいた場所だった。
管理局に記録を抹消された男の家。
本来なら誰も戻れない場所。
だが。
不思議とまだ残っていた。
車が止まる。
カイは外へ出た。
夕方だった。
風が吹いている。
見上げる。
自分の部屋の窓。
まだある。
壊されてもいない。
封鎖もされていない。
「意外だな」
カイが呟く。
エストが車の横で煙草に火をつける。
「死人の部屋だからな」
「誰も興味がない」
その言葉に少しだけ納得した。
被検体776は死んだ。
管理局の記録ではそうなっている。
だから誰も探していない。
少なくとも表向きは。
エストが煙を吐く。
「しばらく隠れてろ」
「嫌だ」
「知ってる」
即答だった。
メルが吹き出す。
エストも苦笑した。
「だから最低限だ」
「明日までだ」
「その後は好きにしろ」
カイはアパートを見る。
胸の奥が少しだけざわつく。
魚屋で感じた違和感。
自分の中にあった何か。
そしてタリムの言葉。
タマが先に階段を登り始める。
赤い目だけが暗く光っていた。
カイはその背中を見ながら歩き出す。
今度は怪物を追うためじゃない。




