第六十五話 切る理由
朝の市場は騒がしかった。
氷を砕く音。
魚を運ぶ台車の音。
威勢のいい呼び声。
いつもと同じだった。
ただ一つ違うのは、魚屋の奥に立つ老人がいつも以上に静かだったことだ。
タリムは魚を捌いていた。
包丁は迷わない。
魚を開き、骨を外し、身を切り分ける。
まるで最初からそうなることが決まっていたみたいだった。
カイは魚箱の上に腰掛けたまま、その様子を眺めていた。
その時だった。
端末が震えた。
画面を見る。
メルからだった。
珍しい。
開く。
送られてきた画像は二枚だった。
一枚目。
黒い車列。
場所は西地区の古い倉庫街。
その下に時刻。
十九時。
さらに文字。
適合因子回収。
対象十七名。
子供九名。
カイの表情が消える。
二枚目を開く。
内部資料だった。
赤字で大きく書かれている。
不要個体処分。
数秒。
動けなかった。
メルに電話。
すぐに出る。
「なんで俺に送った」
「私が頼める中で一番強い」
「なんとかして、お願い」
通話が切れる。
市場の音だけが耳に入る。
魚を切る音。
水の流れる音。
誰かの笑い声。
全部が妙に遠かった。
カイは立ち上がる。
魚屋の作業台まで歩く。
端末を置いた。
「見ろ」
タリムは返事をしない。
魚を捌き続ける。
一匹終わる。
水で洗う。
次を持つ。
そこでようやく画面を見た。
数秒。
視線を落としたまま。
それから魚へ戻る。
「で」
カイの眉が動く。
「で?」
タリムは魚を開きながら言った。
「本物だな」
それだけだった。
カイは苛立つ。
「終わりかよ」
返事はない。
包丁だけが動く。
魚の骨が外れる。
綺麗だった。
だから余計に腹が立った。
「なあ」
タリムの手が止まる。
本当に止まった。
初めて見た気がした。
「止められねえのか」
市場の音が少し遠くなる。
タリムは魚を見たまま聞き返した。
「何を」
「分かってるだろ」
端末を指差す。
「NO22なんだろ」
タリムは黙る。
魚の目を見ている。
死んだ魚の目を。
「だから何だ」
その一言でカイの言葉が詰まる。
リー。
ワン。
今まで死んだ奴ら。
色々浮かぶ。
「そんな力あるなら」
言葉にならない。
「もっと前に」
タリムは魚を洗う。
水が赤く流れていく。
「お前」
包丁が入る。
「ここへ来る前」
魚が開く。
「何人助けた」
カイは答えない。
「何人止めた」
骨が外れる。
「何人変えた」
答えられない。
タリムは淡々と続けた。
「俺も同じだ」
魚を置く。
「一人切る」
包丁が落ちる。
「次が来る」
骨が外れる。
「十人流す」
内臓を捨てる。
「百人残る」
市場の風が吹いた。
魚の匂いが流れる。
タリムは魚を裏返した。
そして綺麗に開く。
無駄が一つもない。
「最初は数えてた」
小さく言う。
「助けた数も」
「殺した数も」
包丁を置く。
「そのうちやめた」
少しだけ笑った。
乾いた笑いだった。
「数える意味が無かった」
カイは黙る。
反論できない。
タリムの言葉は正しい。
だから気に入らなかった。
しばらく誰も喋らない。
市場だけが動いている。
やがてカイは端末を掴んだ。
振り返る。
歩き出す。
「どこ行く」
背中に声が飛ぶ。
初めてだった。
タリムが呼び止めたのは。
カイは止まらない。
「西地区」
短く答える。
「一人か」
「一人だ」
数歩進む。
それから振り返らずに言った。
「俺は飽きてねえ」
市場の喧騒に言葉が消える。
カイはそのまま去っていった。
姿が見えなくなる。
魚屋に静寂が落ちる。
タリムはしばらく動かなかった。
目の前には捌きかけの魚。
包丁もそこにある。
だが手を伸ばさない。
遠くで呼び声が響く。
氷を砕く音が聞こえる。
タリムはゆっくり立ち上がった。
エプロンを外す。
椅子へ掛ける。
魚箱を脇へ寄せる。
そして店の前まで歩いた。
シャッターを掴む。
重い音が鳴る。
ガラガラと市場に響いた。
近くの店主が驚いた顔をする。
タリムは何も言わない。
シャッターを最後まで下ろす。
札を裏返した。
そこに書かれていた文字を見て、小さく息を吐く。
本日休業。
十二年間、一度も閉めなかった店だった。
それでも今日は閉めた。
もう魚を切る日じゃない。




