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第六十四話 境界線

警報が鳴っていた。


 白い研究所全体が揺れている。


 天井の照明が明滅し、赤い警告灯だけが不気味に回り続けていた。


 カイは目の前の少年を見ていた。


 赤い目。


 幼い頃の自分によく似た顔。


 だが、同じではない。


 決定的に違う何かがあった。


「お前は誰だ」


 もう一度聞く。


 少年は少し考えた。


 そして肩を竦める。


「分からない」


「ふざけてんのか」


「本当に分からない」


 その答えだけは嘘ではない気がした。


 少年は壁にもたれた。


 研究所の天井が軋む。


 どこかでガラスが割れる音がした。


「俺も気付いたらいた」


 赤い目がカイを見る。


「お前の中に」


 沈黙。


 カイは黙ったまま聞いていた。


「最初から?」


「たぶん」


 曖昧だった。


 だが妙に納得もしてしまう。


 タマはずっといた。


 研究所より前だったのかもしれない。


 それすら分からない。


「じゃあ何で犬なんだ」


 少年が初めて笑った。


「俺も聞きたい」


 少しだけ空気が緩む。


 だが次の瞬間。


 警報音が大きくなった。


 研究所が揺れる。


 壁に亀裂が走る。


 少年はそれを見上げた。


「時間がない」


「何の」


「もう近い」


 意味が分からない。


 最近そんな言葉ばかりだった。


 近い。


 壊れる。


 戻れなくなる。


 誰もまともに説明しない。


 だから腹が立った。


「お前ら説明不足なんだよ」


 少年が少し驚く。


「は?」


「近い近いって何がだ」


「壊れるって何だ」


「勝手に話進めるな」


 言葉が止まらなかった。


 少年はしばらく黙っていた。


 それから小さく言った。


「お前」


「最近考えてないだろ」


 カイの顔が止まる。


「何」


「答えを貰ってる」


 胸の奥が重くなる。


「接続」


 少年は続けた。


「前は見てた」


「観察してた」


「考えてた」


 研究所の床が揺れる。


「でも最近は違う」


 赤い目が真っ直ぐ向く。


「だから壊れる」


 沈黙。


 カイは何も言えない。


 心当たりがあった。


 魚。


 戦闘。


 人混み。


 全部だ。


 最近は考えなくても終わる。


 答えだけが来る。


 楽だった。


 だが。


 気持ち悪かった。


「だから揃えた」


 少年が言う。


「何を」


「全部」


「闘技場もか」


「うん」


「その前も」


「うん」


「カイ、まだ弱かった」


「勝たせてない」


「死なないようにしただけ」


 その瞬間。


 ロイの診療所が頭をよぎった。


 血圧。


 脈拍。


 視力。


 反射。


 全部正常。


 全部中央。


 全部揃っていた。


 ロイは言った。


 無理やり揃えられている、と。


 カイの目が開く。


「お前か」


 少年は頷いた。


「死ぬから」


 即答だった。


「ズレると壊れる」


「だから揃えた」


 カイは拳を握る。


 理解できた。


 全部繋がった。


 だが。


 納得はできなかった。


「勝手に決めんな」


 少年が瞬きをする。


「俺の身体だ」


 研究所が揺れる。


 壁が崩れる。


 それでもカイは止まらなかった。


「壊れるなら壊れる」


「失敗するなら失敗する」


「それでも俺だ」


 少年は黙って聞いていた。


「答えだけ貰って何になる」


「見なきゃ意味ねえ」


「考えなきゃ意味ねえ」


 言い終わる。


 静かになる。


 警報だけが鳴っている。


 しばらくして。


 少年が笑った。


 本当に小さく。


 初めてだった。


「そう」


 どこか安心したような顔だった。


「だからお前なんだ」


 研究所の崩壊が加速する。


 天井が落ちる。


 壁が砕ける。


 白い世界が崩れていく。


 少年は立ち上がった。


「もう大丈夫」


「何が」


「少し離れる」


 カイの眉が寄る。


「離れる?」


「揃えるのやめる」


 赤い目が細くなる。


「でも死ぬなよ」


「うるせぇ」


 思わず返す。


 少年は笑った。


 今度は少しだけ楽しそうだった。


 そして。


 世界が砕けた。


 ――――――――――


 目を開く。


 アパートだった。


 床に倒れている。


 息が荒い。


 全身が汗で濡れていた。


 しばらく動けない。


 やがて身体を起こす。


 窓際。


 タマがいた。


 いつもの黒い犬だった。


 赤い目だけがこちらを見ている。


 少しだけ。


 距離が遠い。


 そんな気がした。


「もう勝手に触るな」


 言う。


 タマは首を傾げた。


 数秒後。


 頭の奥で声が響く。


『努力する』


 カイは思わず吹き出した。


「努力でどうにかなる話かよ」


 返事はない。


 だが。


 少しだけ空気が軽かった。

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