第五十三話 声
灰街は静かだった。
静かすぎた。
南区封鎖区域。
地図ではそう呼ばれている。
だが実際に来てみると、街というより墓場だった。
道路には車が残っている。
窓ガラスは割れている。
看板は傾き、信号は止まったままだ。
人の気配がない。
風だけが吹いていた。
カイは車を降りる。
横ではタマが地面へ降りていた。
赤い目が周囲を見ている。
いつもより落ち着かないように見えた。
「ここか」
返事はない。
当然だった。
エストから送られてきた座標を確認する。
被害中心部まで徒歩十分。
カイは歩き始めた。
途中で足が止まる。
道路脇。
横転した大型輸送車。
写真で見た車両だった。
近付く。
車体を見る。
違和感。
カイは手を伸ばした。
潰れている。
だが爆発じゃない。
衝突でもない。
鉄板が内側へ折れている。
握ったようにも見える。
だが違う。
圧力の向きが合わない。
「……何だこれ」
しゃがみ込む。
鉄骨。
ボルト。
フレーム。
全部が中心へ向かって潰れている。
まるで見えない何かに引き寄せられたみたいだった。
写真で見た時より酷い。
カイはしばらく車体を見続けた。
構造接続。
頭の中で潰れる瞬間を再現する。
だが途中で止まる。
分からない。
説明がつかなかった。
気持ち悪い。
その時だった。
タマが低く唸った。
珍しかった。
カイは顔を上げる。
タマは道路の先を見ている。
視線を追う。
古いアパートだった。
二階建て。
半分崩れている。
だが。
洗濯物が残っていた。
風で揺れている。
誰かいる。
カイはゆっくり近付いた。
玄関。
扉は開いている。
「いるか」
返事はない。
中へ入る。
薄暗い。
埃の匂い。
湿気。
古い生活臭。
二階から音がした。
軋む音。
誰かいる。
階段を上る。
部屋。
毛布。
痩せた老婆。
座り込んでいた。
カイを見る。
目が合う。
そして。
怯えた。
「違う」
老婆が呟く。
「違う」
震えている。
「俺は管理局じゃない」
カイは言った。
老婆は返事をしない。
ただ耳を押さえていた。
強く。
痛そうなくらいに。
カイは止まる。
耳。
血。
掻き壊した痕がある。
何度も。
何度も。
「怪我してるぞ」
老婆は首を振った。
「聞こえる」
小さな声だった。
「何が」
その瞬間。
老婆の顔が歪んだ。
涙が溢れる。
肩が震える。
「止まらない」
泣きながら言った。
「ずっと」
呼吸が乱れる。
言葉にならない。
それでも続ける。
「ずっと聞こえる」
カイは黙っていた。
老婆は耳を押さえたまま震えている。
「何が聞こえる」
しばらく沈黙したあと。
老婆はゆっくり顔を上げた。
その目は完全に怯えていた。
「声」
それだけだった。
「誰の」
老婆は首を振る。
分からない。
そういう意味だった。
「何て言ってる」
また沈黙。
長かった。
やがて。
老婆は小さく呟いた。
「分からない」
涙が落ちる。
「分からないのに」
震える。
「止まらない」
「地下」
その言葉で空気が変わった。
「地下から聞こえる」
老婆が耳を押さえる。
「ずっと呼んでる」
「何を」
「分からない」
「でも……何か探してる」
部屋の空気が重くなる。
カイは周囲を見る。
窓。
閉じられている。
隙間には布。
壁。
毛布。
防音材。
耳栓。
全部ある。
まるで音から逃げているみたいだった。
カイは眉を寄せる。
因子能力か。
怪物の影響か。
それとも別の何かか。
分からない。
だが。
気になった。
嫌になるくらい。
その時だった。
老婆が顔を上げた。
目が見開かれる。
何かを見ている。
カイではない。
その後ろ。
窓の外だった。
「来る」
声が震える。
「また来る」
カイは反射的に振り返った。
窓の外。
誰もいない。
だが。
遠く。
街の中心部。
崩れた高層ビルの向こう。
何かが動いた。
巨大だった。
ビルより高い。
一瞬だけ見えた黒い影。
そして。
地面が小さく震えた。
カイは目を細める。
恐怖ではなかった。
観察したい。
理解したい。
その感覚の方が先だった。
「……見つけた」
老婆は泣いていた。
タマは唸っていた。
そしてカイだけが、その影から目を離せなかった。




