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第四話 試す

朝だった。


 安アパートの狭い部屋。


 カイは机の前に座っていた。


 缶コーヒーが一本転がっている。


 視線を向ける。


 何も起きない。


 手を伸ばす。


 やはり何も起きない。


「……気のせいか」


 昨日からずっと引っ掛かっていた。


 自販機。


 百円玉。


 あの時だけ妙に見えた。


 軌道。


 風。


 落ちる場所。


 全部。


 頭の中で先に組み上がった。


 偶然だったのか。


 それとも違うのか。


 気になる。


 気になると駄目だった。


 頭から離れない。


 飯を食っても。


 寝ても。


 残る。


 足元ではタマが丸くなっていた。


 赤い目だけがこちらを見ている。


「試すか」


 端末を開く。


 検索。


 地下格闘。


 違法配信。


 賞金戦。


 動画が流れる。


 歓声。


 血。


 賭け。


 怒号。


 その中で一つの大会に目が止まった。


 南区ストリートファイト。


 一勝五万。


 二勝十万。


 三勝二十万。


 開始まで二十分。


 カイは立ち上がった。


 タマの尻尾が一度だけ揺れた。


 ―――


 高架下。


 昼。


 酒の臭い。


 煙草の臭い。


 汗。


 血。


 全部が混ざっていた。


 リング代わりの区画。


 観客は百人以上いる。


 リーは缶コーヒーを飲んでいた。


 ワンは焼きそばを食っていた。


「お前何してんの」


 リーが聞く。


「実験」


「絶対ろくでもねぇ」


 ワンが頷いた。


「同意」


 カイは受付を済ませる。


 参加者を見る。


 筋肉。


 古傷。


 歩き方。


 目線。


 それぞれ違う。


 だが。


 興味があるのは相手ではない。


 自分だった。


 何が起きた。


 何が変わった。


 何が見えた。


 それだけだった。


 第一試合。


 開始。


 相手は大柄な男だった。


 開始と同時に拳が飛ぶ。


 避ける。


 また来る。


 避ける。


 最初は普通だった。


 三発目。


 違和感。


 肩が落ちる。


 呼吸が変わる。


 重心が左へ寄る。


 次は右。


 そう思った。


 右が来た。


 カイは目を細める。


 四発目。


 今度は左。


 来た。


 本当に来た。


 観客の歓声が遠くなる。


 肩。


 腰。


 視線。


 呼吸。


 全部が繋がる。


 踏み込みが深い。


 顎が空く。


 拳が戻るのが遅い。


 カイは前へ出た。


 拳を振るう。


 顎へ。


 綺麗に入る。


 男が崩れ落ちた。


 歓声が爆発する。


 だが。


 カイは自分の拳を見ていた。


 何で分かった。


 何で見えた。


 そっちの方が気になった。


 リングを降りる。


 リーが缶コーヒーを投げてきた。


「何だあれ」


「分からん」


「勝った本人が言うな」


 カイは少し考える。


「肩」


「は?」


「肩が落ちると右が来る」


「分かるかそんなもん」


「分かった」


 リーが呆れた顔になる。


 ワンは焼きそばを食いながら笑っていた。


 ―――


 第二試合。


 リングへ上がる。


 相手を見た瞬間。


 足が止まった。


 大きい。


 異常なほど。


 首筋に黒い刻印。


 数字。


 290。


 リーの顔色が変わる。


「番号持ちか」


 ワンも眉をひそめた。


「久々に見たな」


 カイは290を見ていた。


 筋肉。


 皮膚。


 姿勢。


 全部がおかしい。


 人間なのに人間じゃない。


 試合開始。


 拳を打つ。


 当たる。


 当たる。


 全部当たる。


 だが。


 効かない。


 290は笑った。


「軽いな」


 次の瞬間。


 拳が来る。


 見えた。


 軌道も。


 角度も。


 全部。


 だが。


 身体が追いつかない。


 衝撃。


 世界が回転する。


 壁。


 照明。


 空。


 全部流れる。


 肺から空気が抜けた。


 呼吸が出来ない。


 視界が揺れる。


 290だけが立っていた。


 無傷だった。


 敗北。


 終了。


 ―――


 夕方。


 高架下の外。


 風が冷たい。


 顔が痛い。


 肋骨も痛い。


 だが頭の中は別だった。


 290。


 あの数字。


 異常な肉体。


 見えていたのに避けられなかった拳。


 全部引っ掛かる。


「聞いてるか」


 リーが煙草を咥える。


「ん?」


 聞いていなかった。


「管理局の生き残りだろうな」


 カイは顔を上げる。


「番号持ちは大体そうだ」


 ワンが続けた。


「運が良いと強くなる」


「悪いと死ぬ」


 研究所。


 被検体。


 番号。


 自分。


 全部が頭をよぎる。


 リーが缶コーヒーを投げてきた。


「まあ一勝したんだからいいだろ」


 端末を見る。


 賞金。


 五万。


 少し考える。


「焼肉」


 沈黙。


 二秒。


 三秒。


「マジ?」


 ワンが即座に反応した。


 リーが煙草を落としかける。


「お前が?」


「俺が」


「熱ある?」


「死ね」


 ―――


 夜。


 三人は焼肉屋にいた。


 安いチェーン店だった。


 それでもリーは上機嫌だった。


「今日は776のおごりな」


「やめろ」


「777」


「もっとやめろ」


 肉が焼ける。


 煙が上がる。


 ワンが聞いた。


「金持ったら何する?」


「車」


 リーが即答した。


「女」


 ワンが言う。


 二人がカイを見る。


「お前は?」


「資料」


 沈黙。


「気持ち悪」


「気持ち悪」


 二人同時だった。


 カイは肉を口へ放り込む。


 答えは出ない。


 だが。


 290のことも。


 研究所のことも。


 今日見えたものも。


 全部知りたかった。


 リーがジョッキを持ち上げる。


「まあいい」


「何が」


「負けたけど一勝した」


 笑う。


「結構すげえぞ」


 ワンが吹き出した。


「急に親みたいなこと言うな」


 リーは首を振った。


「違う」


 少しだけ考える。


 そして当たり前みたいに言った。


「期待してるだけだ」


 カイは返事をしなかった。


 そういう言葉は苦手だった。


 だが。


 悪くないとも思った。


 煙が上がる。


 肉が焼ける。


 くだらない話が続く。


 来週。


 来月。


 来年。


 三人とも、そこにいる前提で話していた。


 カイも疑わなかった。


 疑ったことすらなかった。



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