第三十六話 残響
夜。
闇診療所は相変わらず薬品の臭いが染み付いていた。
カイは診察台に腰掛けたまま、無言で服をめくる。
腹部にはまだ新しい傷が残っていた。
ロイは何も言わず消毒液を傷口へ流し込む。
鋭い痛みが走った。
だが慣れていた。
最近は怪我をしない日の方が少ない。
「お前な」
ロイが呆れたように口を開く。
「またか」
「生きてるだけましだろ」
「ああ」
ロイは納得した。
「安いな」
針が肉へ通る。
糸が締まる。
数分後には処置も終わっていた。
ロイはカルテを閉じる。
机の上の缶コーヒーを持ち上げた。
飲もうとして止まる。
空だった。
しばらく缶を見つめていたが、やがて小さく言った。
ロイはカルテを閉じる。
机の上に置かれた管理局端末へ視線をやった。
「第四研究区には行くな」
カイは眉をひそめた。
「何だよそれ」
ロイは答えない。
「どこにある」
沈黙。
「聞いてんだけど」
「帰れ」
「は?」
「帰れ」
それだけだった。
追い出される。
廊下へ出ても意味は分からない。
第四研究区。
聞いたこともない名前だ。
だが妙に引っ掛かった。
ロイが何かを知っている。
それだけは分かった。
「ちょっと待て」
背後から呼び止められる。
振り返るとロイが血圧計を持っていた。
「健康診断していけ。金になる」
「どこも悪くねえよ」
「いいからやっとけ」
半ば強引だった。
診察台へ戻される。
腕に血圧計が巻かれる。
測定。
数字が出る。
ロイの表情が止まった。
「……は?」
「何だよ」
もう一度測る。
同じ。
三度目。
やはり同じ。
ロイは血圧計を叩いた。
「機械壊れたか?」
「知らねえよ」
次は体温。
脈拍。
血糖。
酸素飽和度。
肺機能。
視力。
聴力。
反射。
一通り終わる。
ロイは端末を見続けていた。
無言だった。
やがて結果を印刷する。
紙が出てくる。
カイも覗き込んだ。
数字が並んでいた。
全部。
異常なほど綺麗だった。
「気持ち悪いな」
ロイが言う。
「悪口か?」
「褒めてねえ」
椅子へ腰を下ろし、髪を掻き上げる。
「普通、人間はズレる」
紙を指で叩いた。
「血圧が高い」
「左右差がある」
「視力が落ちる」
「反射に個人差が出る」
そして。
「お前は全部真ん中だ」
雨が窓を叩いていた。
「そんなことあるか?」
「ない」
即答だった。
ロイはため息を吐く。
「無理やり揃えられてる」
カイの視線が落ちる。
「誰に」
ロイは答えなかった。
代わりに視線を横へ向ける。
そこにはタマがいた。
黒い霧の犬。
赤い目だけが静かに光っている。
「聞くな」
ロイは額を押さえた。
「俺も分からん」
その時だった。
タマが立ち上がる。
黒い霧が伸びる。
診察台へ触れた。
モニターが反応する。
数値が揺れる。
そして止まる。
心拍数。
七十。
七十。
七十。
七十。
七十。
全て同じ。
まるで定規で引いたみたいに揃っていた。
ロイが身を乗り出す。
「……おい」
タマは何もしない。
ただ見ているだけだった。
だが数字は異常なほど綺麗だった。
ロイは長く沈黙した。
それから小さく呟く。
「お前」
その視線はカイへ向いている。
「本当に人間か?」
答える者はいなかった。
雨だけが窓を叩いていた。
翌朝。
廃ショッピングモール地下。
ハンター拠点。
輸送車から奪った回収品が山積みになっていた。
ライフルがケースを開き、思わず声を上げる。
「うわ。新人の仕事じゃねえぞこれ」
長コートが煙草を咥えながら笑った。
「青まで潰して帰ってきたしな」
フィーノは回収品を確認している。
弾薬。
抑制剤。
端末。
どれも高価なものばかりだった。
「かなり当たりだな」
ワイトは部屋の奥から眺めている。
相変わらず表情は変わらない。
「NOは?」
「280」
カイが答える。
ワイトの目が少し細くなった。
「刺突型か」
「一直線だった」
「だろうな」
ライフルが肩をすくめる。
「青でも上澄みだ」
「普通の回収班じゃ止められねえ」
その時だった。
タマが動く。
黒い犬は回収品の山へ近付いていく。
弾薬には反応しない。
抑制剤にも興味を示さない。
奥に置かれていた小さな金属ケースの前で止まった。
頭の奥に声が響く。
『深い』
カイはケースを拾い上げた。
黒い金属製だった。
管理局のロックが掛かっている。
「それ何だ?」
フィーノが聞く。
分からない。
だがタマが見ている。
だから開けた。
ロックを壊す。
蓋が開く。
中には一本のアンプルが入っていた。
銀色の液体が静かに揺れている。
ラベルには一言だけ。
《残響》
空気が変わった。
ライフルが顔をしかめる。
「うわ」
「嫌なもん拾ったな」
長コートも煙草を止める。
「まだ残ってたのか」
カイはアンプルを見る。
フィーノが説明した。
「感覚保存系だ」
「動きや感覚を脳へ焼き付ける試作品」
「適合すれば強い」
「失敗すれば頭が壊れる」
銀色の液体が揺れる。
綺麗だった。
妙に惹かれる。
今の自分に合っている気がした。
観察。
模倣。
記録。
どこか繋がっている。
「面白いな」
フィーノが露骨に嫌な顔をした。
「やめとけ」
「今のお前は十分危ねえ」
ワイトだけは黙っていた。
タマを見ている。
タマもアンプルを見ている。
だが次の瞬間。
『違う』
全員が止まった。
タマはアンプルを見ていなかった。
ケースの底だった。
裏返す。
小さな刻印。
第四研究区
試験記録
息が止まる。
昨日のロイの言葉が蘇る。
――第四研究区には行くな。
部屋の空気が変わった。
フィーノも。
ライフルも。
長コートも。
表情が消えていた。
ワイトだけが静かだった。
「どこでその名前を聞いた」
低い声だった。
「昨日。ロイが言った」
ワイトはしばらく黙る。
やがて小さく呟いた。
「なるほどな」
その時。
タマがケースへ触れた。
黒い霧が揺れる。
頭の奥で何かが弾けた。
白い部屋。
白い壁。
拘束具。
泣いている子供。
黒い霧。
警告灯。
研究員達。
そして誰かの声。
『失敗作だ』
映像はそこで途切れた。
カイは思わず立ち上がる。
呼吸が乱れる。
「今のは何だ」
タマを見る。
赤い目が静かにこちらを見返していた。
長い沈黙。
やがて。
小さな声が響く。
『覚えてない』
第四研究区。
残響。
失敗作。
黒い霧。
散らばっていた点が、少しずつ繋がり始めていた。




