第二十九話 呼吸
リングは静まり返っていた。
さっきまでの歓声が嘘みたいだった。
観客はいる。
だが誰も叫ばない。
誰も笑わない。
全員がリング中央を見ていた。
99。
黒いコート。
大型拳銃。
下ろしたまま。
ただ立っている。
それだけだった。
なのに。
今まで戦った誰より近付きたくなかった。
通信機のノイズが小さく響く。
『排除開始』
99は何も答えない。
ゆっくり歩き始める。
一定。
無駄がない。
まるで機械だった。
ブザーが鳴る。
その瞬間。
カイは床を蹴った。
最速。
距離を潰す。
拳を振るう。
顔面。
確実に届く。
そう思った。
次の瞬間。
視界が回転した。
床。
天井。
照明。
全部が入れ替わる。
背中がリングへ叩き付けられた。
肺から空気が抜ける。
「……は?」
起き上がる。
頬が熱い。
殴られた。
確実に。
だが。
何も見えなかった。
99は元の場所に立っている。
拳銃も下ろしたまま。
まるで動いていない。
観客席から声が漏れる。
「まただ」
「見えねぇ」
「99だろ」
誰も驚いていない。
こうなることを知っている。
歯を噛み締める。
立つ。
もう一度。
今度は腹を狙う。
肩。
腰。
足。
全部を見る。
踏み込む。
拳を放つ。
その瞬間。
景色が消えた。
次に見えた時には。
壁へめり込んでいた。
轟音。
コンクリートが砕ける。
肺が潰れる。
息が出ない。
血が口から零れた。
99は歩いてくる。
一定。
変わらない。
感情もない。
「遅い」
初めて口を開いた。
短い。
それだけだった。
カイは腹を押さえる。
痛い。
だが。
それ以上に分からない。
255は見えた。
177も見えた。
構造があった。
弱点があった。
だが99だけは違う。
見えない。
追えない。
何か根本的に違う。
膝をつく。
呼吸が乱れていた。
速い。
浅い。
胸が苦しい。
頭が回らない。
その時だった。
『呼吸ズレてるぞ』
声が聞こえた。
訓練場。
昼。
木刀。
汗。
笑い声。
リーが立っていた。
若い頃のまま。
『先に合わせろ』
『身体は後だ』
『焦るな』
景色が消える。
リングへ戻る。
目の奥が熱かった。
だが。
今は考えない。
息を吸う。
吐く。
もう一度。
吸う。
吐く。
ゆっくり。
深く。
観客の声が遠ざかる。
痛みも遠ざかる。
99だけが残る。
歩いている。
一定。
呼吸も一定。
無駄がない。
カイは目を閉じる。
一瞬だけ。
そして呼吸を合わせた。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
99が来る。
今度は少しだけ見えた。
肩が落ちる。
足が入る。
重心が動く。
拳が来る。
半歩。
身体が勝手に動いた。
風が頬を掠める。
初めてだった。
避けた。
観客席が静かになる。
99も止まらない。
だが目だけが少し動いた。
呼吸を続ける。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
世界が静かになる。
99が踏み込む。
右ストレート。
見えた。
避ける。
次。
左ボディ。
来る。
読めた。
さらに次。
肘打ち。
そこで気付いた。
この流れ。
見たことがある。
99の動きじゃない。
255。
177。
研究所。
路地。
今まで見てきた戦い。
全部が重なっている。
99はそれを磨き上げた完成形だった。
拳が来る。
避ける。
身体が勝手に沈む。
左足が踏み込む。
腰が回る。
拳が伸びる。
ドン。
鈍い音が響いた。
99の肩が揺れた。
観客席がざわつく。
カイも固まる。
今。
何をした。
99も初めて動きを止めていた。
肩を見る。
そしてカイを見る。
「……なるほど」
小さく呟く。
カイの胸が大きく上下する。
今のは狙った動きじゃない。
考えてもいない。
ただ。
見たことがあった。
99の踏み込み。
99の重心。
99の拳。
それを。
身体が勝手になぞった。
99はゆっくり構え直す。
初めてだった。
排除対象を見る目じゃない。
何かを確かめる目だった。
リングの端で177が笑う。
面白そうに。
心底楽しそうに。
「そう来たか」
小さく呟く。
タマの赤い目が細くなる。
黒い霧が静かに揺れた。
カイは拳を握る。
まだ分からない。
何が起きたのか。
だが一つだけ分かる。
今までとは違う。
初めて。
99との距離が少しだけ縮まった。




