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第二十七話 こっちじゃない

朝だった。


雨は止んでいた。


路地は静かだった。


昨日まで血まみれだった場所とは思えない。


壁も。


地面も。


全部きれいになっている。


カイはしゃがみ込んだ。


排水溝を見る。


血はない。


肉片もない。


何も残っていない。


指で地面をなぞる。


乾いている。


普通のコンクリートだった。


「……何だったんだ」


返事はない。


当然だった。


横を見る。


タマが少し先に立っている。


赤い目。


じっと路地の奥を見ていた。


誰もいない。


壁しかない。


それでも動かない。


「帰るぞ」


耳も動かなかった。


仕方なく近付く。


肩へ手を伸ばす。


触れた瞬間だった。


頭の奥で声が響いた。


『こっちじゃない』


身体が固まる。


思わず手を引いた。


タマを見る。


赤い目。


まっすぐこっちを見ていた。


「……今の」


喉が鳴る。


声じゃない。


音でもない。


でも意味だけが直接頭へ流れ込んできた。


タマが振り返る。


また路地の奥を見る。


『こっちじゃない』


二度目だった。


背筋が寒くなる。


「何がだよ」


返事はない。


当然だった。


だが。


今までとは違う。


確かに何かが伝わった。


タマはまた奥を見る。


壁しかない。


行き止まりだ。


それなのに。


何かがあるように見ている。


カイはしばらくその方向を眺めた。


結局何も分からなかった。


「……意味分かんねえ」


頭を掻く。


歩き出す。


タマも付いてくる。


だが何度も振り返った。


まるで何かを置いてきたみたいに。


昼。


地下闘技場。


歓声が響いていた。


酒。


煙草。


汗。


血。


全部混ざった嫌な臭いがする。


通路を歩く。


タマも横を歩く。


だが様子がおかしかった。


リングを見ない。


観客も見ない。


ずっと同じ方向を見ている。


リングのさらに奥。


関係者用通路。


暗闇の向こう。


そこばかり見ていた。


カイは眉をひそめる。


「何見てんだ」


タマは答えない。


ただ見ている。


異様なくらい真剣だった。


その時だった。


「いた!」


聞き覚えのある声。


振り向く。


スーツ男だった。


汗だくだった。


「探したぞ!」


「何だよ」


「次だ!」


「今日は見学じゃなかったのか」


「消えたんだよ!」


意味が分からない。


スーツ男は息を整えながら言った。


「177だ」


空気が少し変わった。


周囲のスタッフも落ち着かない。


観客席も妙にざわついている。


リングを見る。


誰もいない。


本来なら立っているはずの場所が空だった。


「逃げたのか」


「違う」


即答だった。


「来る」


その直後。


歓声が爆発した。


リング中央。


男が立っていた。


いつ現れたのか分からない。


細い身体。


長い腕。


猫背。


不自然なほど長い指。


男は笑っていた。


観客が名前を叫ぶ。


「177!」


「177!」


「177!」


歓声が地下を揺らす。


男は嬉しそうに笑う。


だが。


目だけ笑っていない。


カイは自然と観察していた。


肩。


骨盤。


足。


呼吸。


癖。


全部見る。


だが妙だった。


何かがおかしい。


違和感だけが残る。


177がゆっくり腕を上げた。


袖が裂ける。


中から金属が現れた。


腕そのものが変形している。


何本もの刃。


肉から直接生えているようだった。


観客がさらに騒ぐ。


177は笑った。


「ほぉ」


初めて声を出した。


視線がこっちへ向く。


首が傾く。


「面白いな」


ぞわりとした。


獲物を見る目だった。


カイは無意識に拳を握る。


だが。


その横で。


タマが低く唸った。


177を見ていない。


まただ。


リング奥。


暗い通路。


その先。


誰もいない場所。


そこを見ている。


『こっちじゃない』


三度目だった。


頭の奥に響く。


カイは177を見る。


タマを見る。


また177を見る。


観客は177しか見ていない。


だが。


今のカイは違った。


177よりも。


タマの方が気になっていた。


研究所。


榊。


二核。


黒体。


足りない。


まだ。


全部が頭をよぎる。


『こっちじゃない』


タマの赤い目は動かない。


まるで。


何かを知っているみたいだった。


リングでは歓声が続いている。


177が笑っている。


だが。


カイの意識はもう別の場所へ向いていた。


暗い通路。


その奥。


タマが見続けている何か。


そこに。


今までの答えがある気がした。


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