第二十三話 知らない
暗闇だった。
音もない。
光もない。
自分の身体があるのかどうかさえ分からない。
ただ沈んでいた。
深く。
どこまでも深く。
時間の感覚も曖昧だった。
眠っているのか。
死んでいるのか。
それすら分からない。
遠くで声が聞こえた。
『──776』
男の声だった。
振り返る。
白衣の背中が見えた。
長い廊下を歩いている。
白い。
壁も。
床も。
天井も。
全部白い。
研究所だった。
見覚えはない。
なのに妙に懐かしかった。
『776』
また呼ばれる。
追いかけようとする。
だが距離が縮まらない。
そのときだった。
足元から黒い霧が現れた。
タマだった。
赤い目でこちらを見ている。
白衣の男が立ち止まる。
ゆっくり振り返る。
顔は見えなかった。
光で潰れている。
ただ口だけが動いた。
『まだ早い』
世界が砕けた。
ガラスが割れるみたいに。
白い景色が崩れる。
光が流れ込む。
目を開けた。
知らない天井だった。
錆びた鉄板。
回る換気扇。
薬品と煙草の臭い。
頭が重い。
身体も重い。
起き上がるだけで傷が軋んだ。
「……どこだ」
脇腹が痛い。
肩も痛い。
全身が殴られたみたいだった。
横を見る。
タマが椅子の上で丸くなっていた。
尻尾だけが一度揺れる。
生きているらしい。
「生きてるね」
女の声だった。
聞き覚えがある。
視線を向ける。
開いた扉の向こう。
メルが壁にもたれていた。
煙草を咥えたままこちらを見ている。
片目の機械眼が青く光った。
カチ、と小さな音が鳴った。
「死んだと思ってた」
「縁起でもねえな」
メルは鼻で笑った。
そのまま部屋へ入ってくる。
机に端末を置き、椅子へ腰掛けた。
指が動く。
異常な速度でタイピングを始める。
「ここどこだ」
「三万」
「は?」
「質問料」
「帰るぞ」
「どこに?」
言葉に詰まる。
天井を見る。
本当に知らない場所だった。
メルは煙を吐いた。
「じゃあ五万」
「値上がってんじゃねえか」
「嫌なら寝てろ」
不機嫌そうだった。
だが、そのいつも通りの態度が少しだけ安心できた。
それが腹立たしかった。
「何日寝てた」
「二日」
「マジか」
「死にかけてたし」
メルの機械眼が小さく鳴る。
視線が動く。
顔。
首。
胸。
腕。
順番に確認する。
最後にタマを見る。
一瞬だけ止まった。
「それ」
「前より気持ち悪いね」
「失礼だな」
「事実」
タマが目を細めた。
メルは珍しく視線を逸らした。
少しだけ。
本当に少しだけだった。
タイピングが止まる。
画面が切り替わる。
メルが端末をこちらへ向けた。
「そういや」
「面白いの見つかった」
嫌な予感しかしなかった。
画面を見る。
写真だった。
白い研究所。
白衣の人間。
何人も並んでいる。
中央。
一人の男。
その隣。
子供。
首から番号札を下げている。
【776】
時間が止まった。
写真を掴む。
顔を近付ける。
何度も見る。
子供の顔。
見覚えがあった。
鏡で何度も見た顔だった。
自分だった。
喉が鳴る。
「……何だこれ」
メルは煙草を吸った。
「私も最初そう思った」
写真を見る。
もう一度見る。
776。
研究所。
自分。
全部写っている。
だが何も覚えていない。
「コラじゃねえよな」
「残念ながら本物」
換気扇が回る。
頭が痛い。
夢で見た白い廊下が浮かぶ。
776。
同じ数字。
重なる。
「何なんだよ……」
メルの表情が少しだけ変わった。
珍しく真面目な顔だった。
「榊」
カイが顔を上げる。
「は?」
「中央第四研究所」
「研究主任」
部屋が静かになる。
タマが立ち上がった。
黒い霧がわずかに逆立つ。
メルは続けた。
「その研究の名前」
一拍置く。
「二核因子」
心臓が強く鳴った。
写真を見る。
榊を見る。
776を見る。
研究所を見る。
全部そこにある。
目の前にある。
証拠として。
事実として。
なのに。
何一つ知らない。
自分のことなのに。
何一つ覚えていなかった。




