第二話 居場所
昼過ぎだった。
カイは安アパートの天井を見上げていた。
昨日から何度も見ている染みがある。
別に気にするほどのものじゃない。
それなのに目がいく。
暇だからかもしれない。
あるいは考えたくないことが多すぎるからか。
起き上がる。
部屋は狭かった。
昨日借りたばかりの部屋だ。
研究所から逃げ出した後、適当に見つけた場所だった。
財布を開く。
金はある。
だが問題は別だった。
端末を開く。
認証。
失敗。
もう一度。
失敗。
三回目。
同じだった。
「……マジかよ」
口座も駄目。
身分証も駄目。
登録情報も駄目。
何も残っていない。
研究所の連中は本当に全部消したらしい。
被検体776。
それが今の自分らしい。
笑えなかった。
腹が減る。
冷蔵庫を開く。
何もない。
缶コーヒーが一本だけ残っていた。
飲む。
苦い。
その時だった。
視線を感じる。
横を見る。
黒い霧。
赤い目。
相変わらず意味が分からない。
「お前、結局何なんだ」
「居座る気か」
返事はない。
当然だった。
黒い犬は部屋の隅で丸くなる。
犬。
というより黒い霧の塊だ。
だが形だけは犬に見える。
「パチ球みたいだな」
丸い。
黒い。
「タマでいいか」
赤い目が一度だけ瞬いた。
気のせいかもしれない。
カイは洗面所へ向かった。
顔を洗う。
冷たい水が気持ちいい。
鏡を見る。
疲れた顔が映っていた。
目の下には薄く隈がある。
そして気付く。
「……あ?」
鏡の中にタマがいない。
振り返る。
いる。
部屋の入口に座っている。
もう一度鏡を見る。
いない。
振り返る。
いる。
鏡。
いない。
振り返る。
いる。
カイはしばらくそれを繰り返した。
結果は変わらない。
「何だそれ」
怖さはなかった。
気になる。
その感覚の方が強い。
コップを持ってくる。
水を入れる。
覗く。
タマが映っている。
「は?」
鏡を見る。
いない。
水を見る。
いる。
スマホを向ける。
映る。
窓ガラスを見る。
いない。
冷蔵庫の金属部分を見る。
映る。
机のステンレス板。
映る。
スプーン。
映る。
「……条件があるのか」
気付けば二十分ほど経っていた。
紙を引っ張り出す。
書く。
鏡。
×
窓。
×
水面。
○
スマホ。
○
金属。
○
並べる。
見比べる。
タマは途中から完全に呆れたような顔になっていた。
「違うな」
素材じゃない。
ガラスでも映るものと映らないものがある。
反射率でもない。
なら何だ。
考える。
その時だった。
扉が激しく叩かれた。
ドンドンドン。
遠慮がない。
「開いてるぞ」
言い終わる前に扉が開いた。
リーだった。
その後ろからワンも入ってくる。
二人とも相変わらずだった。
リーは銃を背負っている。
ワンはどこか傷が増えていた。
「生きてたか」
リーが言う。
短い言葉だった。
だが少しだけ安心した顔をしていた。
「俺もびっくりしてる」
カイが答える。
ワンが笑う。
「死体処理場送りから帰ってきた奴初めて見た」
「縁起でもねぇな」
「事実だろ」
ワンが部屋を見回す。
「飯は?」
「缶コーヒー一本」
「終わってんな」
「お前が言うな」
リーが冷蔵庫を開く。
何もない。
無言で閉める。
「本当に終わってるな」
「だから言っただろ」
ワンがポケットから固いパンを投げた。
「食え」
「どこで拾った」
「聞くな」
「じゃあ食わん」
「贅沢言うな」
三人とも少し笑った。
昨日まで研究所にいたことを、一瞬だけ忘れる。
ワンの視線が止まった。
タマだった。
「その犬は?」
「知らん」
「知らんじゃねぇだろ」
「勝手についてきた」
ワンが近付く。
タマを見る。
鏡を見る。
もう一度タマを見る。
「……何してんだ?」
「実験」
「何の?」
カイはタマを指差した。
「こいつ鏡に映らねぇ」
沈黙。
数秒。
「は?」
リーも近付いてくる。
本当に映らない。
二人とも顔を見合わせた。
「何だこれ」
「知らん」
「便利な言葉だな」
その後しばらく三人で実験が始まった。
鏡。
スマホ。
金属。
窓。
結果は変わらない。
誰にも理由は分からない。
だが。
カイだけは紙を見ていた。
「一つだけ分かった」
二人が振り向く。
「何だ?」
「映るか映らないかには法則がある」
「当たり前だろ」
「違う」
カイは紙を見る。
「ランダムじゃない」
「何かの条件で決まってる」
リーとワンは顔を見合わせた。
「つまり?」
「まだ分からん」
「意味ねぇ」
ワンが笑う。
カイも少しだけ口元を緩めた。
全部は分からない。
だが。
一つだけ確かなことがある。
タマはただの犬じゃない。
夕方。
リーとワンは帰っていった。
「また来る」
リーが言う。
「飯食えよ」
ワンが言う。
「金ない」
「知ってる」
笑いながら帰っていく。
部屋が静かになる。
カイは窓際に座った。
外は暗くなり始めている。
ふと視線を感じた。
見る。
タマだった。
赤い目。
じっとこちらを見ている。
「何だよ」
返事はない。
その時だった。
部屋の電気が消えた。
ブツッ。
冷蔵庫の音も止まる。
換気扇も止まる。
真っ暗だった。
窓の外を見る。
街灯は点いている。
向かいの部屋も明るい。
停電じゃない。
この部屋だけだった。
暗闇の中。
赤い目だけが浮かんでいる。
タマだった。
カイは目を細める。
怖いとは思わない。
ただ。
また一つ分からないことが増えた。
そして同時に。
タマが普通じゃないことだけは確信していた。
「……やっぱお前気持ち悪ぃな」
タマは何も答えなかった。




