第一話 処理場
ダクトから力なく排出される。
男。
動かない。
生きている気配がない。
だが。
指先、僅かに動く。
次の瞬間。
男の胸部が大きく膨らむ。
それと同時に
「あああああああああああああ」
男の唸りとも叫びとも言えない声。
胸の奥で、何かが動いていた。
心臓ではない。
もっと別の何かだ。
胸部から黒い霧が排出される。
比例して胸部はしぼんでいく。
肋骨の裏側を掻き回されるような不快感に、男は顔を歪めた。
「っ……!」
息が詰まる。
喉が焼ける。
反射的に胸を叩いた。
その瞬間だった。
激しい吐き気が込み上げる。
「ゴホッ!」
最後、黒い霧の塊が口から吐き出された。
床へ落ちた霧は消えなかった。
周りの黒い霧が集まる。
ゆっくりと広がり、集まり、形を作る。
四足。
犬のような存在。
全身が黒い。
目だけが赤い。
その犬は、何も言わず男を見ていた。
「……何だお前」
返事はない。
手を伸ばした。
掴む。
空を切る。
もう一度掴む。
やはり抜ける。
犬はじっと見ていた。
「もう一回やれよ」
犬は動かない。
「……ケチだな」
目には見えている。
だが触れられない。
普通の犬でもなかった。
男は立ち上がろうとして失敗し、そのまま床を這いながら犬へ近付く。
しゃがむ。
覗き込む。
赤い目だけが追いかけてくる。
「目からビームとか出ないか?」
犬は答えない。
「ん?」
「面白いな」
男は少し笑った。
死にかけている状況らしいが、それより犬の方が気になった。
何分経ったか分からない。
犬はずっとそこにいた。
その間にようやく周囲を見る余裕ができた。
白い天井。
蛍光灯。
薬品臭い空気。
冷たい床。
そして壁際に並ぶ黒い袋。
一つだけ口が開いていた。
中から人間の腕が見える。
ハエが飛んでいた。
「最悪だな」
死体置き場らしい。
その時。
重い鉄扉の向こうから足音が聞こえた。
扉が開く。
白い防護服を着た男が入ってきた。
死体袋を蹴りながら歩いてくる。
そして男を見るなり固まった。
手から端末が落ちる。
「生きてる……」
「見て分からねえか」
「いや、お前は死んだはずだ」
「知らねえよ」
防護服は慌てて端末を拾い上げた。
「ここ、何人処理してんだ」
「数えてない」
防護服、死体袋を蹴る。
「肉だ」
男。
「人間だろ」
「昨日まではな」
画面を何度も叩く。
眉が寄る。
「何だこれ……」
「だから知らねえって」
防護服はしばらく画面を睨んでいた。
やがて諦めたように息を吐く。
「面倒だな」
壁へ寄り掛かりながら端末を操作する。
男はその様子を見ていた。
正確には防護服を見ていた。
肩。
肘。
膝。
腰。
動き。
重心。
全部。
「なあ」
「何だ」
「その服」
防護服が嫌そうな顔をした。
「重いだろ」
「……は?」
「関節補強してる」
「……」
「なのに足音が小さい」
男が黙る。
男は続けた。
「肩の可動域も妙に広いな」
「お前……」
「管理局の装備か?」
防護服が完全に固まった。
当たりらしい。
「よく見てんな」
「見れば分かる」
「分からねえよ普通は」
「なあ」
「お前の全部、見せろ」
男、防護服の頭を左右から掴む。
防護服は心底嫌そうな顔をした感じがする。
「離れろ」
「何で」
「気持ち悪い」
「ひでえな」
「代われよ」
「…は?」
「その服」
「着れば中入れるだろ」
その時。
防護服の端末画面が目に入った。
赤文字。
【死亡処理完了】
【識別情報抹消済】
防護服は端末を閉じた。
「お前」
「ん?」
「存在してないぞ」
「そうか」
「平気なのか」
「俺が落ちてきたダクト入れないか」
「は?」
「入ってどうする」
「通れる構造だった」
「だから?」
「手術真横で見たい」
「……」
「俺どこ切られた?」
「……」
「何人いた?」
「……」
「何時間かかった?」
「…は?」
防護服は数秒黙った。
「お前、本当に頭おかしいな」
男は肩をすくめた。
犬を見る。
犬はいつの間にか端末の前に座っていた。
赤い目で画面を見ている。
妙な犬だ。
やっぱり面白い。
「被検体776」
犬。
耳が動く。
「惜しいな」
「何が」
「777じゃない」
「自分の命なんだと思ってやがる」
防護服が呆れて顔を押さえた。
「お前因子は?」
「湿布うまく張れる」
「お前中身人間か?」
「多分な」
防護服が壁を指差した。
金属プレートが埋め込まれている。
そこには数字が刻まれていた。
776。
「それがお前だ」
「名前じゃなくて番号か」
「死体には十分だろ」
776はプレートを引き抜いた。
そのまま床へ叩き落とす。
蹴る。
踏む。
曲がる。
数字が潰れる。
「これで終わりだ」
プレートは闇の奥へ転がった。
犬はその様子を黙って見ていた。
「行け」
防護服が鉄扉を開く。
冷たい夜風が吹き込んできた。
足元、何かの端を踏む。
鍵。
「おい、鍵落ちてるぞ
「・・そんなところにあったか」
男、鍵を投げる。
暗闇の奥。
十歩以上離れた防護服の胸。
真ん中に当たる。
「・・今の、見えてたのか」
犬が僅かに収縮した。
腹が鳴る。
そういえば腹が減っていた。
「飯だな」
「呑気な奴だ」
「財布ないけど」
「それは知らん」
防護服は何かを投げた。
革のケースだった。
中には紙幣が数枚。
「飯代だ」
「いい人じゃん」
「死体見て寝覚めが悪いだけだ」
「パチ屋で増やして返しに来る」
防護服は顔を逸らした。
男はケースをポケットへ入れる。
「死体になっちまったしどうするかな」
犬を見る。
まだいる。
「お前も飯食うか?」
返事はない。
当たり前だ。
犬なのだから。
男は歩き出した。
犬もついてくる。
夜の街灯が並ぶ道を、一人と一匹で歩く。
胸から出てきた犬。
存在を消された自分。
分からないことばかりだった。
だが不思議と嫌ではなかった。
むしろ気になる。
知りたい。
どうなっているのか見てみたい。
そんなことを考えながら、男は犬を見下ろした。
犬は赤い目でこちらを見上げていた。
「研究所、上から全部見たかったな」




