第十七話 逃走
研究所の外へ飛び出した瞬間、冷たい夜風が肺へ突き刺さった。
「ハッ……!」
息が荒い。
肩が痛む。
脇腹も痛い。
全身が悲鳴を上げていた。
それでも足は止まらなかった。
アンプルの効果はまだ残っている。
身体は重いのに動く。
矛盾した感覚だった。
後ろを見る。
研究所は赤い警報灯に染まっていた。
サイレンが鳴り続けている。
だが安心はできない。
255は倒した。
レムルも終わった。
それでも。
まだ残っている。
154。
あれだけは別だった。
泥道を駆ける。
足元で黒い水が跳ねる。
腐った臭いが鼻を刺した。
その時だった。
前方。
闇の中に人影が立っていた。
154。
いつの間にかそこにいた。
足音は聞こえなかった。
ただ気付いたら前にいた。
「止まりなさい」
声が聞こえる。
耳じゃない。
頭の中だった。
首筋に鳥肌が立つ。
奥歯が鳴る。
地面に転がっていた鉄パイプを拾う。
重い。
さっきまで羽みたいだったのに。
今は鉛だった。
154が一歩近付く。
「怖い?」
その瞬間。
身体が止まった。
右脚が動かない。
左脚も動かない。
肩が重い。
腕が重い。
全身が泥へ沈んでいくようだった。
頭も重い。
瞼も落ちる。
声が増える。
『終われ』
『休め』
『寝ろ』
『もういい』
『疲れただろ』
次々と流れ込んでくる。
154の口はほとんど動いていない。
なのに聞こえる。
何だこれ。
音じゃない。
脳へ直接流し込まれている。
考えた瞬間。
頭痛が走った。
視界が揺れる。
リーが浮かぶ。
白い床。
血。
ワンが浮かぶ。
笑顔。
次の瞬間には消える。
ドクン。
心臓が跳ねた。
怒りだけが残っていた。
まだ終わっていない。
何も。
終わっていない。
タマが前へ出た。
黒い毛並みを逆立てる。
154は初めて視線を向けた。
チャリ。
腰のワイヤーが鳴る。
「いい子だね」
タマが唸った。
低い。
長い。
空気が震える。
そして。
咆哮。
「オオオォォォン!!」
夜が揺れた。
泥が跳ねた。
鼓膜が痛む。
頭が震える。
だが。
声が消えた。
身体の重さも消えた。
脚が動く。
腕が動く。
肺へ空気が戻る。
「ッ!!」
カイは息を吸った。
154を見る。
初めてだった。
154の眉が僅かに動いた。
ほんの一瞬。
表情が崩れた。
効いている。
タマはあれに効く。
確信した。
鉄パイプを振りかぶる。
全力で投げる。
風が裂ける。
154は首を少し傾けただけだった。
鉄パイプが後方へ飛ぶ。
ガン!!
廃車が潰れた。
154は無傷だった。
だが。
足が止まった。
十分だった。
今しかない。
走る。
全力で。
泥を蹴る。
154も追ってくる。
歩いているだけだった。
なのに速い。
意味が分からない。
距離が縮まる。
前方。
川が見えた。
黒い濁流。
工業排水と雨水が混ざった最悪の川。
臭い。
汚い。
だが選べない。
後ろから声が届く。
「止まりなさい」
また頭へ入ってくる。
耳を塞ぐ。
意味はなかった。
直接流れ込んでくる。
川岸へ飛び出す。
迷わない。
飛んだ。
身体が宙へ浮く。
一瞬だけ無重力になる。
そして。
ドボン!!
冷たい。
肺が縮む。
鼻が痛い。
視界が真っ黒になる。
流れが速い。
速すぎる。
身体が持っていかれる。
後ろで銃声が鳴った。
水柱が上がる。
潜る。
もっと深く。
濁った水の中。
何も見えない。
だが見えていた。
流れ。
渦。
岩。
全部。
頭へ入ってくる。
右腕を引く。
左脚で蹴る。
異常な速度だった。
魚みたいだった。
横を見る。
タマがいる。
必死に犬かきしていた。
前脚。
後脚。
水を掻いている。
その姿が妙に滑稽だった。
思わず笑いそうになる。
泡が漏れた。
「お前……」
また泡が漏れる。
「犬じゃねえか……」
水面へ浮上する。
息を吸う。
また潜る。
橋が流れていく。
工場が流れていく。
街灯が流れていく。
頭はまだ熱い。
アンプルの効果は切れていない。
255を思い出す。
壊れた肩。
戻った肩。
154を思い出す。
優しい声。
あれが一番怖かった。
流れ続ける。
やがて川が浅くなった。
岸が見える。
泥を掴む。
指を食い込ませる。
這い上がる。
「っ……はァ……!」
咳が止まらない。
水を吐く。
泥を吐く。
身体が言うことを聞かない。
仰向けに倒れた。
空を見る。
夜明けが近い。
横を見る。
タマがいた。
全身ずぶ濡れだった。
黒い霧も弱っている。
それでもいる。
生きている。
周囲を見回す。
廃ビル。
錆びた車。
知らない場所。
完全に流されたらしい。
しばらく呼吸を整える。
拳を握る。
痛い。
だが握る。
リー。
ワン。
レムル。
255。
154。
全部残っている。
空を見上げる。
研究所を思い出す。
二核。
黒体。
記憶処理。
サカキ。
何一つ分からない。
奥歯が鳴る。
胸の奥がざわつく。
怒りだけじゃない。
それよりもっと厄介なものだった。
「……何なんだよ」
掠れた声が漏れる。
沈黙。
拳を握る。
空を見る。
「全部」
タマが横でこちらを見る。
赤い目が静かに揺れた。
カイは目を細める。
「見せろ」
夜明けの空だけが答えた。
そのまま意識が沈んでいく。




