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第十話 標準

朝だった。


 雨は止んでいた。


 空は相変わらず灰色だ。


 スラム外れの廃工場には湿った風が吹いている。


 鉄骨は赤茶けて錆びていた。


 床には昨日の雨が残した水溜まりが点々と広がっている。


 カイは右肩を回した。


「……いてぇ」


 途中で止まる。


 まだ痛む。


 黒コートとの戦闘から数日。


 傷は塞がり始めているが、完全には戻っていなかった。


 右手を開く。


 閉じる。


 力は入る。


 腕を上げる。


 途中で止まる。


 また下がる。


 舌打ちした。


 それでも動く。


 なら問題ない。


 工場の奥へ向かう。


 空き缶を並べた。


 一個。


 二個。


 三個。


 距離を離す。


 さらに離す。


 鉄球を拾う。


 掌に収まるほどの大きさだった。


 冷たい。


 投げる。


 カン。


 一個目が倒れる。


 二個目。


 カン。


 倒れる。


 三個目。


 カン。


 倒れる。


 カイは眉をひそめた。


 もう一度鉄球を拾う。


 投げる。


 カン。


 真ん中。


 もう一度。


 カン。


 真ん中。


 さらにもう一度。


 カン。


 真ん中。


「……何だこれ」


 缶を見る。


 穴を見る。


 鉄球を見る。


 もう一度投げる。


 当たる。


 また真ん中だった。


 投げる前から分かる。


 どこへ当たるか。


 どう飛ぶか。


 先に見えている。


 そんな感覚だった。


 腕が勝手に動くわけじゃない。


 違う。


 思った通りに動く。


 投げたい場所へ。


 投げたい角度で。


 まるで最初から結果が決まっているみたいに。


 外れる気がしなかった。


 投げる。


 カン。


 真ん中。


 投げる。


 カン。


 真ん中。


 外れない。


 風が吹く。


 鉄骨が鳴る。


 そして。


 NOを思い出した。


 胴体が無かった。


 腕だけが転がっていた。


 靴だけが残っていた。


 切断面。


 骨。


 肉。


 服。


 全部思い出せる。


「どうやった」


 小さく呟く。


 木板を立てた。


 投げる。


 ドス。


 穴が空く。


 近付く。


 見る。


 違う。


 もう一度。


 ドス。


 また穴が空く。


 違う。


 NOの切断面じゃない。


 もっと鋭い。


 もっと綺麗だった。


 鉄球を拾う。


 今度は壁へ向いた。


 投げる。


 コン。


 傷が付く。


 また投げる。


 コン。


 同じ場所。


 さらに投げる。


 コン。


 また同じ場所。


 傷が少し広がる。


 投げる。


 コン。


 投げる。


 コン。


 投げる。


 コン。


 傷。


 壁。


 傷。


 壁。


 傷。


 壁。


 違う。


 何か違う。


 切断面。


 骨。


 肉。


 服。


 先に裂けていた。


 どうやった。


 どうやって。


 どうやって。


 どうやって。


 風。


 消える。


 鉄骨。


 聞こえない。


 壁。


 傷。


 傷。


 傷。


 傷だけ。


 もっと。


 もっと近付け。


 もっと。


「ずっと同じ場所だね」


 女の声だった。


 そこで初めて止まる。


 振り向く。


 知らない女が立っていた。


 二十歳くらい。


 短い髪。


 薄い笑み。


 いつからいたのか分からない。


「何見てやがる」


「見せもんじゃねえぞ」


 女は肩を竦めた。


「兄さんさ」


 壁を見る。


 削れた一点を見る。


 またカイを見る。


「普通じゃないよね」


 意味が分からない。


 カイは壁へ向き直った。


 鉄球を投げる。


 コン。


 また同じ場所。


 女が少し笑う。


「やっぱり」


「何が」


「いや」


 少し考える。


「そういう人なんだなって」


 カイは答えない。


「お前右目、どうした」


「その距離からよく見えるね」


 10mはある。


「機械眼」


「賭けで負けてとられちゃった」


「偽情報つかまされちゃったみたい」


「そうか」


この街じゃよくある話だった。


 また投げる。


 コン。


 同じ場所。


 女は壁を見る。


 缶を見る。


 鉄球を見る。


 そして不意に言った。


「NO見たんでしょ」


 手が止まる。


 空気が少し変わった。


「何で知ってる」


 女は笑った。


「情報屋だから」


「そういうの飯の種」


 沈黙。


 長い。


 NO。


 白い壁。


 血。


 切断面。


 全部浮かぶ。


「……だったら教えろ」


 女が少し驚いた顔をした。


「何を?」


「どうやって切った」


 即答だった。


 女は数秒黙る。


 それから吹き出した。


「そこ?」


「普通はNOって何とか」


「管理局がどうとか聞かない?」


 カイは壁を見る。


「そんなのどうでもいい」


 鉄球を投げる。


 コン。


 同じ場所。


「どうやった」


「それだけだ」


 女はしばらく黙った。


 それから少し真面目な顔になる。


「変な人」


「よく言われる」


 嘘だった。


 一度も言われたことはない。


 女は笑った。


「私はメル」


「情報屋」


「人の秘密売って飯食ってる」


 カードを取り出す。


 指で弾く。


 飛ぶ。


 カイは反射で掴んだ。


「困ったら連絡して」


「情報は高いよ」


 番号が書いてある。


 雑だった。


 ポケットへ入れる。


 メルが少し驚いた。


「捨てないんだ」


「紙に金払ったんだろ」


「まあ」


「そうだけど」


 少し笑う。


 沈黙。


 カイはまた壁へ向いた。


 鉄球を投げる。


 コン。


 同じ場所。


 投げる。


 コン。


 同じ場所。


 投げる。


 コン。


 同じ場所。


 傷が広がる。


 穴になる。


 さらに広がる。


 カイはそれを見ていた。


 NOを思い出す。


 切断面を思い出す。


 壁を見る。


 傷を見る。


 そして気付く。


「……近い」


 小さく呟く。


 NOじゃない。


 あの切断じゃない。


 でも。


 何かが近い。


 力じゃない。


 精度だ。


 狙った一点へ。


 狂ったように収束する何か。


 その瞬間だった。


 頭の奥に鋭い痛みが走る。


「っ……」


 眉をひそめる。


 視界が一瞬だけ揺れた。


 思わず後ろを見る。


 メルがいる。


 カードケースを弄っていた。


 何気ない仕草。


 なのに。


 妙な感覚があった。


「……おい」


 メルが顔を上げる。


「何?」


「腹減ってるか」


 メルが固まる。


「は?」


 カイも困った顔になる。


「いや」


 頭を掻く。


「なんとなく」


 痛みが残っていた。


「そう思ってる気がした」


 風が吹く。


 数秒。


 沈黙。


 メルは本気で気味悪そうな顔をした。


「……気持ち悪いね」


「そうか?」


「そうだよ」


 カイには分からなかった。


 ただ。


 頭の奥の違和感だけが残っている。


 タマが少しだけ耳を動かした。


 誰も気付かない。


 風だけが廃工場を吹き抜けていった。



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