46: ハインツの過去
本エピソード「ハインツの過去」は、主人公カール・ハインツ・エルンハイムの内面に迫る回想録的な章です。
物語は、ハインツが二人の女性——ゾフィーとレナ——に養育計画を提示する場面から始まります。しかし冷静沈着に見える彼の言葉の裏には、長年封じてきた記憶が息づいていました。ゾフィーの一言——「あなたにとって、お父さんってどんな存在だった?」——が、その扉をそっと開きます。
語られるのは、統一後のドイツという時代の傷を背負った父、グスタフの物語です。東ドイツ出身の技術者として、崩壊した祖国と共に自らも崩れていった父。酒と現実逃避の果てに、四十歳にも満たない若さで命を落とした男。そしてその父を「無力」と感じながらも、どこか切り離せずにいた少年ハインツ。
このエピソードは単なる過去語りではありません。ハインツがなぜあれほど「自立」と「成功」に固執するのか、なぜ「祖国」や「父」という言葉を冷ややかに遠ざけるのか——その根っこが、静かに、しかし確かに描かれています。
読後、彼の冷徹さの奥にある孤独の輪郭が、少しだけ見えてくるはずです。
ハインツの過去
ゾフィー・ラスムセンと、カール・ハインツ・エルンハイムの母親となるレナ・エルンハイム——二人の女性は、黙ってその書類を見つめていた。ハインツが差し出した紙の上には、整然とした文章が記されていた。
「一ヶ月のうち二週間はゾフィーの家で、残りの二週間はレナの家で。養育費、情緒的な義務、父親としての責任はすべて俺が負う。この案に不満はないか?」
沈黙が流れた後、ゾフィーがゆっくりと口を開いた。
「ハインツ、あなたはどんな父親になりたいの?」
彼は目を逸らしながら笑った。「俺?さあ……まだ考えたことなかったな。」
その瞬間、レナが静かに溜め息をついた。ゾフィーは彼の目を見つめながら、再び問いかけた。
「それじゃあ、ハインツ。あなたにとって、お父さんってどんな存在だった?」
ハインツはしばし黙っていた。何か心の奥深くから湧き上がってくるような表情だった。
「……それは古い問いだな。答えようとしたら……たぶん、三十年前に遡らなきゃいけない。」
窓の外には、穏やかな風が吹いていた。一枚の紙がテーブルの上でひっくり返った。
ハインツはゆっくりと口を開いた。
「父は実業学校を卒業した技術者だった。東ドイツ出身で、無口で、手に胼胝のある人間だった。母のリナは西ドイツ出身の教師で、確かに父より裕福だった。知的な人で、安定した生活を求めていた。」
彼はしばし立ち止まり、窓の外を見やった。時は流れても、記憶は鮮明だった。
「母は父を愛していたけど、結婚という制度には懐疑的だった。だから同棲を選んだんだ。一九九八年のことだった。ドイツがまだ統一の後遺症に苦しんでいた頃だよ。」
彼はゆっくりと続けた。
「統一後、東西ドイツの経済格差は深刻だった。父のような東独出身者は仕事を見つけることさえ難しかった。技術者とはいえ、西側のシステムでは証明書も、人脈も、何の役にも立たなかったから。体一つで生き延びてきたんだ。」
ハインツは静かに笑った。その笑いには、わずかな寂しさが滲んでいた。
「あの頃、俺は母が父を助けるのを見ながら育った。愛というより……憐れみの方が近かったかもしれない。」
「父の名はグスタフといった。もとは東ドイツの共産党員だった。しかしベルリンの壁が崩れたその瞬間、彼の祖国も共に消えた。信念も、仕事も、生きる意味も、すべて。」
ハインツは言葉を止めた。眼差しは遠い過去を手探りしていた。
「統一後、東独出身であることは重荷だった。新しい秩序に適応できなかった父は、結局、母の家に居候する専業の男になった。母が金を稼ぎ、父は昼間は机の前に座り、夜になると酒を飲んでクラブを渡り歩いた。現実逃避だったんだ。」
彼は苦々しく笑った。
「父は無力だった。無口で、自尊心も折れたまま……俺一人が彼の子どもだったのに、それでさえも、ちゃんと抱きしめてはくれなかった気がする。時には、そんな父を理解しようとするけど、また時には……本当に嫌だった。」
ゾフィーは静かに聞いていた。
「母はいつも冷静で現実的だった。父方の祖父母には一度も会ったことがなかった。東独に残っていた方たちだったから。クリスマスになると母は荷物をまとめてスペインへ旅立ち、父は一人で祖父の家へ向かった。そして俺は——いつも一人で残されていた。」
「俺はクリスマスのたびに父の家へ行った。祖父と過ごすうちに、自然と機械や設計図、回路といったものに興味を持つようになった。父のような技術者になりたかった。現実では無力な人間だったけど、何かを作ることには、まだ真剣だったから。」
ゾフィーが静かに尋ねた。「じゃあ……あなたのお母さんは、生涯、お父さんの家族に会ったことがなかったのね?」
ハインツは頷いた。
「そう。母にとって父は、ただ……性的な関係を中心にした同居人に過ぎなかった。特に非難するでもなく、稼いでこいと迫るでもなかった。でも、その代わり、愛情もなかった。」
彼はしばし黙ってから、苦々しく笑った。
「たぶん母が父方の家族に初めて会ったのは……父の葬儀だったと思う。それが唯一の出会いだった。」
窓の外では雪が降っていた。ハインツは冷たいガラス窓に指先を当てながら言った。
「それでも父は、俺に世界の構造を教えてくれた。少なくとも鉄筋とネジ、回路の中では……世界は明確だったから。」
「俺が十歳になった二〇〇九年の夏、祖母が肺癌で倒れた。父は祖母ととても親しかったから、病院のベッドの傍を離れなかった。」
ハインツの声が少し低くなった。
「母は来なかった。父が電話をかけたけど、母は冷たく言い放った。『グスタフ、その人はあなたのお母さんでしょう。あなたが看なさい。私には自分のキャリアの方が大事』」
ゾフィーが静かに言った。「確かに個人主義的な選択ね……東欧やギリシャなら、一日くらいは手伝っていたでしょうに。」
ハインツは何も言えなかった。ただ、あの日の病室で、父の手を固く握りながら泣いていた祖母の顔だけが思い浮かんだ。
「父は数週間後、ついに祖母を失った。」
その後、父は崩れた。昼間は虚ろに過ごし、夜になると酒に酔って見知らぬ女たちと時間を潰した。
そんなある夜、父は泥酔したまま家へ帰ってきた。母はリビングに座って待っていた。
「いくら悲しくても」と母は口を開いた。「なんで毎晩、他の女と寝るのよ、グスタフ?」
父は何も言わなかった。ただ、壁にもたれて立っているだけだった。
「まさか、私があなたのお母さんを看なかったからって、こんな形で復讐してるの?」
しばし沈黙が流れた。父は頭を垂れながら口を開いた。
「……そうじゃない。ただ、生きているという感覚を、少しでも味わいたかっただけだ。」
しかしその言葉でさえ、母の冷たい眼差しを和らげることはできなかった。
ハインツはしばし言葉を止めた。
「そして俺が十一歳になった年の夏のことだった。」
彼はゆっくりと続けた。
「その日も酔っ払った父は家を出た。その夜、父は小川に落ちて、この世を去った。」
ゾフィーも、レナも、何も言わなかった。
「知らせを受けた時……最初は実感がなかった。ただ静かだった。家の中がおかしいくらい静まり返って、母は何日も無言だった。それの方が怖かった。」
ハインツはガラス窓を見つめた。雪が降っていた。
「二〇一〇年のことだった。父は四十歳にも満たない歳だった。」
ゾフィーが静かに言った。「あなたのお父さん……本当に可哀想ね、ハインツ。」
ハインツは頷きもせず、首を振りもしなかった。ただ窓の外を見つめていた。
「その時になって、母も父に厳しく当たりすぎたと気づいたんだって。だから二度と、新しい男を探すことはなかった。」
「俺はあの頃から、人生に対して虚無感を感じ始めた。父は俺の記憶の中で、いつも無力で力のない存在だった。だから俺は心の中で誓った。絶対にああいう生き方はしない、と。」
その後、ハインツは技術学校に進んだ。数学とコンピュータ工学を学びながら、いつかCEOになりたいという夢を抱いた。
「二〇一四年、俺が十五歳の時だった。学校から家に帰る途中、不良のグループに出くわした。所持品を奪われた。殴られたくなかったから、言われるがままに従うしかなかった。」
彼は淡々と続けた。
「家に帰って考えたら、腸が煮えくり返った。無力な父も、強圧的な暴力も、どちらも害悪だということを、その時悟った。だから決意した。この社会で認められるためには、無力でも強圧的でもなく、何か大きな成功を掴まなければならないと。」
しばらくして、ハインツはカードゲームで、かつて自分をいじめていたグループと再び鉢合わせた。完勝だった。その時、感じた。自分は弱くないと。以来、裏路地のカード卓で手当たり次第に相手を打ち破りながら腕を磨いた。学校では誰よりも優れた成績を収め、飛び級で卒業した。
「あの日から俺の目標は揺るぎないものになった。世界に屈せず、自分のやり方で堂々と立つこと。」
ゾフィーはしばらく黙って彼の顔を見つめていた。
「ハインツ……あなたがどれほど必死に生きてきたか、わかるわ。幼い頃のあのすべてを一人で耐えて、結局、自分の望む場所まで辿り着いたんだもの。」
彼女は少し間を置いてから、慎重に付け加えた。
「でも『祖国』とか『父』みたいな言葉を、全部つまらないものとして片づけてしまうのは……少し悲しい。そういう言葉に心を寄せる人もいる。みんなが極右ではないわ。ひょっとしたらあなたの子どもたちも、いつかそういう言葉に意味を見出したくなるかもしれない。」
ゾフィーは彼の目をじっと見つめながら言った。
「あなたが父親として存在したくないということも、理解できる。でも、子どもたちがいつもあなたのやり方だけに従ってくれると期待しないで。あなたは自分の人生を切り開いてきたけど、それはあなたの傷の上に建てた塔よ。価値を否定することも自由だわ。でも、誰かにとっての最後の希望を踏みにじることは、自由じゃない。」
ハインツは眉をわずかに顰めた。揺るがないようにしていたが、どこかその言葉が染み込んでくるようだった。
ハインツは溜め息をつきながら続けた。
「それが俺が極右勢力を嫌う理由だ。あいつらはまだ『国家』、『祖国』、『父』なんていう言葉を叫んでいる。ロシアの極右主義者やネオナチ勢力は言うまでもなく、AfDも二十一世紀のドイツでまだそんな標語を唱えているじゃないか。」
彼は冷静に続けた。
「結局、あいつらがやっていることは個人の自由を抑圧して、『伝統』とか『共同体』とか言いながら人を型にはめることだ。俺たちZ世代は違う生き方をする。もう『父の国』には住まない。自分自身として存在し、自分自身にだけ責任を負う時代を生きる。」
ゾフィーは静かに目を伏せながら呟いた。
「そう……世界は本当にそう変わらなければいけないのかな……それとも、もうそう変わりつつあるのかな……」
窓の外には、ドイツの初夏の夕焼けが赤く染まっていた。ハインツはもう何も言わなかった。
一つだけ確かなことがあった。彼はもう『父の名』では生きない、ということ。そしてその選択は、彼だけの信念だった。
このエピソードを書きながら、何度か手が止まりました。
グスタフというキャラクターは、最初から「悲劇的な父親」として設計されていたわけではありません。ただ、時代に置き去りにされた人間を描こうとしたら、自然とこういう形になっていきました。東西統一という歴史的な出来事が、個人の人生をどれほど静かに、そして取り返しのつかない形で変えてしまうか——それをハインツの視点から描くことが、このエピソードの核心でした。
ハインツの選択——「父の名で生きない」——は、批判でも肯定でもなく、ただ一人の人間の切実な誓いとして書きました。彼が正しいとも、間違っているとも断言しない。そのグレーゾーンにこそ、この物語の息遣いがある気がしています。
ゾフィーの言葉——「あなたの傷の上に建てた塔」——は、この章で最も大切にしたセリフです。彼女はハインツを否定しない。でも、彼の自由の形がすべての人の自由ではないことを、静かに問いかける。その緊張感が、物語をただの成長譚で終わらせないための支えになっていると思っています。
最後に、冬の病室で祖母の手を握って泣いていたグスタフのことを、どうか忘れないでいてください。彼もまた、誰かに愛されたかった一人の人間でした。




