17.封じられてきた、声と証拠
ひとつのロッカーに詰め込まれ、誰にも開かれることのなかった記録。
語られぬまま失われた声と、見て見ぬふりをされた証拠。
その封印を、由里は確かにこじ開けた。
そして今――沈黙の時代に終止符を打つべく、かつての“関係者”が口を開こうとしている。
*
笠井はソファから立ち上がり、淹れたてのコーヒーをふたつのカップに注いで戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
由里は受け取って一口すする。少し間を置き、笠井がぽつりと口を開いた。
「どこまで話したかな」
「虚埼がゼミの実験を握っていた、というところまでです」
由里が答えると、笠井はうなずいて続けた。
「そうだったね。ある日、絞間先生がひどく憔悴した顔で、私に話しかけてきたんだ」
「手渡された封筒には、通帳と印鑑、それに振込先が書かれた紙が入っていた。毎月三十万円を、ある施設に送金してほしい、と」
「久しぶりに先生から頼られて、うれしくてね。“任せてください”と、即答したんだ」
「それから間もなく、有科が姿を消した。毎日ゼミに欠かさず来ていた子だったから、異変にはすぐ気づいた。寮に問い合わせても、“戻っていません”の一点張り」
「ご両親に連絡して、警察にも相談したけど、まともに取り合ってもらえなかった。新聞の尋ね人欄にも載せたけど……彼は、結局見つからなかった」
「数週間後、ある雑誌に“非人道的な脳外科手術が行われている医大がある”という内部告発の記事が出た。学内では誰もが、“絞間ゼミのことだ”と噂したよ」
ひと呼吸おき、笠井は静かに続けた。
「……絞間先生は、その記事が出てから数日後、研究室で服毒自殺された。誰にも何も言わずに、静かに、ひとりで」
「先生の死後、虚埼は突然、姿を消した。説明も何もなく、煙のように」
語る声は低く、どこか自分に言い聞かせるようだった。
「……それから十年後、偶然、街で彼を見かけたんだ。だが……見る影もなかった」
「不眠と幻覚に苦しみ、会話もほとんど成り立たなかった。完全に精神を病んでいたよ」
笠井はわずかに目を伏せ、慎重に言葉をつなぐ。
「ちょうど新しくできたばかりだったこの病院棟に、入院の手配をした。治療すれば、少しは落ち着くかもしれないと思って……けれど――」
そこまで言って、深く息を吐いた。
「むしろ、入院してからの方がひどくなった。幻覚、妄想、支離滅裂な言動……『エレベーターが、全部の階で止まるんだ』って、怯えた目で何度も訴えていたよ」
「私が、『たまたまそうなっただけだろう』って返すと、『何基もある中で、なぜ自分の乗った籠だけが全階に止まる? 絶対におかしい』って……必死だった」
「『今度また同じことが起きたら、どこかで降りてみる』――そんなことも言っていた」
一瞬、笠井のまなざしが揺れた。
「……ある日、中庭で彼が倒れているのを看護師が見つけた。転落死だった、と聞いている」
由里はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。その声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。
「……先生。そのあと、事件の真相を調べようとはしなかったんですか?
当時、関係者はまだ学内にいたはずです」
その問いに、笠井の表情が一瞬こわばった。
やがて視線を落とし、小さくつぶやく。
「……怖かったんだ。私は、何も調べなかった」
「最近になってようやく、絞間先生に頼まれていた三十万円の振込先――『聖セルフィナ療養院』に連絡を取ったんだ」
笠井の声が、わずかに震える。
「そこで初めて知った。羽村和江さんが、そこに入院していたことを」
「……あの三十万は、彼女の療養費だった。誰にも知られずに、ずっと絞間先生が支払っていたんだ」
彼は唇を引き結び、ゆっくり目を閉じる。
「私は、ただ言われた通りに動いていただけだった。何のために、誰のためにかも考えずに……その金の意味を理解したときには、もう遅すぎた」
両手で頭を抱え、苦しげに言葉を絞り出す。
「彼女の頭には手術痕があった。話すことも、意思の疎通もできない……まるで壊されてしまったようだった」
少しの沈黙のあと、顔を上げた笠井の目には、怒りと決意が宿っていた。
「今、君の話を聞いて、ようやく確信した。あの手術は――虚埼がやった。間違いない」
そして、力なく続けた。
由里はふぅと息を吐き、ソファーに深く腰を沈める。
笠井の目をまっすぐ見据えて、静かに言った。
「……先生。お願いがあります。
このロッカーの中にあるもの――どうか、すべてを公にしてください。
記者会見を開いて、世の中に示してほしいんです。
これは、ただの資料なんかじゃありません。
長いあいだ封じられてきた、声と証拠なんです」
笠井は目を伏せたまま動かない。
由里はさらに静かな声で、しかし揺るぎない意志をこめて続けた。
「それが先生にできる、被害者たちへの……唯一の、贖罪です」
重苦しい沈黙が部屋を満たす。その中で、笠井の喉がわずかに動き、音を立てる。
やがて彼は、静かに頷いた。
「……うん。わかった。そうするよ。ありがとう」
その声には、ようやく自分の立つべき場所を見つけた者の、かすかな安堵がにじんでいた。
*
「記者会見を開くには……まず、この資料を整理しなくてはならないね。どれが医学的に意味を持つものか、どれが単なる記録か」
そう言って、笠井はロッカーから一冊の分厚いノートを取り出した。
表紙には油染みの跡、留め具代わりの伸びきった輪ゴム。
それは、有科自身の記録だった。研究の記録、ゼミ生との些細な会話――すべてが綴られていた。
「ここに……すべてがあるのかもしれない。有科が告発しようとしたこと、虚埼が行っていた実験の証拠……」
由里は一歩、前へ出た。
「私も手伝います。この資料を、失われた声を、世の中に出しましょう」
笠井は目を閉じ、しばし沈黙してから、静かに頷いた。
「……ありがとう。私はもう、真実から目を背けない」
由里もまた、力強くうなずいた。
<第18話へつづく>




