18.記憶の終着点
名前を呼ばれたその瞬間、
眠っていた記憶が、静かに目を覚ます。
交わされなかった約束、語られなかった罪、
そして、ようやく辿り着いた“声”の終わり。
すべては、この場所で終わり、
ここから、未来へと繋がっていく。
*
聖セルフィナ療養院の一室に、篠原淳平と祖母の千代がいた。
ベッドに横たわる白髪の女性は、虚空を見つめたまま、ほとんど反応を示さない。
「和江ちゃん……」
千代はそっと手をさすり、やさしく語りかけた。
その声に応えるように、和江と呼ばれた女性が、わずかに身じろぎし、ゆっくりと頭を千代のほうへ向ける。
「……千代ちゃん?」
「そうよ、和江ちゃん。お互い、すっかり年をとっちゃって」
千代は笑い、目元をぬぐった。
「来てくれたのね……」
「おじさんもおばさんも、あなたのこと、ずっと黙ってた。でもね、孫の淳平が調べてくれたの。あなたのこと」
「は、初めまして。篠原淳平です」
そう言って、淳平は深く頭を下げた。
和江は彼の顔を見つめると、静かに微笑んで言った。
「……知ってるわ。ありがとう」
そして目を閉じた。
――知ってるわ?
その言葉にわずかな疑問を抱きながら、淳平は祖母とともに病室を後にした。
廊下では、医師や看護師たちがざわついていた。「羽村さんが言葉を……?」「脳機能が戻ってきたのかもしれない」
そんな声が行き交っていた。
「和江さん、僕のこと……知ってたね」
帰り道、淳平がつぶやくと、千代が静かにうなずいた。
「――全部、知ってたのよ。きっとね」
*
その夜、ある青年が和江の元を訪ねた。
療養院の中庭。
月の光に包まれた緑のなかに、羽村和江の姿があった。
その隣には、色素の薄い髪をした長身の青年が腰かけていた。
「……有科君、無茶しすぎよ」
和江は穏やかに微笑む。
「はい。虚埼さんは、僕の想定をはるかに超える“化け物”でしたから」
有科は苦笑し、肩をすくめる。
「私、男を見る目がなかったわね」
和江はくすくすと笑った。
「今気づいたんですか? じゃあ次は、僕を選んでください」
「……うん。そうする」
和江の声は、どこか遠くを見つめているようだった。
「それじゃ、そろそろ失礼します。少し、長居しすぎました」
有科は立ち上がり、軽く一礼する。
「じゃあ、またね。有科君」
和江は手を振った。その指先が、光の中に静かに溶けていった。
病室のベッドの上で、羽村和江は静かに眠っていた。
その顔は、穏やかだった。
まるで、ずっと待ち続けていた誰かとようやく再会を果たしたように――。
*
笠井辰郎は、大学に退職届を提出した。
旧体制のもと、絞間教授が主導していた非人道的な脳外科手術――
その実態を、世に公表するためだった。
準備は万全だった。この事実が、また闇に葬られることのないように。
各方面の報道機関に、同じ内容を録画したビデオテープと証拠のコピーを複数送付しておいた。
朝、スーツに袖を通し、鏡の前でふと思う。――数十年、羅針盤を失った船のようにさまよっていた。
やっと今日、一歩、前に進める気がする。
会見会場へと続く道。駅から歩いて10分ほどの道のり。
穏やかな朝。街路樹の間から陽光がこぼれている。
そして、角を曲がったその瞬間だった。
目の前に、ひとりの男が立っていた。
黒いジャケット、黒いスラックス、きれいに磨かれた革靴を履いていた。
「……うっ、虚埼……?」
その名が自然に口から漏れた。
男はゆっくりと振り返った。
「笠井さんの晴れ舞台だろ?せっかくだから、見に来たんだ」
そう言って、笑った。
次の瞬間――
バーン――。
視界が、真っ暗になった。
*
会見場には、すでに多くの報道陣が詰めかけていた。「昭和三十五年、大学病院で行われた非合法手術」
センセーショナルな話題に、メディアは群がっていた。
だが、開演時間になっても、笠井は姿を現さなかった。ざわつく会場。
――逃げたのか?
――圧力か?
騒然とする中、関係者が壇上に上がる。
黒いケースを開き、1本のVHSテープを取り出した。
「これは、昨日のうちに笠井先生からお預かりしたものです。
万一、当日来られなかった場合、これを再生してほしいと」
映し出されたのは、自宅の書斎に座る笠井辰郎だった。
その表情は静かで、言葉は抑制が効いていて、しかし力強かった。
彼は語った。
絞間の罪を、虚埼の異常性を、そして有科詠人の失踪の真実を――。
*
翌日、各紙の一面には、笠井辰郎の訃報とともに、彼が会見で明かした衝撃的な告発の内容が大きく報じられた。
《昭和三五年――医療の闇、いま明かされる》
そんな見出しが、紙面を埋め尽くした。
片桐大学には、連日報道陣が押しかけた。
だが、事件当時を知る者は、もはや笠井ただひとりだった。
ビデオの中で、笠井はもうひとつの訴えを口にしていた。――旧病院棟の周辺には、未だ見つかっていない不明者の遺体があるかもしれない。
闇から闇へと葬られた彼らの亡骸を、どうか探してほしい。
その訴えは、警察をも動かした。
旧病棟の跡地で、正式な捜索が行われることになった。
手首にプラスチック製のIDバンドをつけた遺体が1体。
さらに、戦時中のものとみられる古い5体分の遺骨。
当時の日本で、患者にリストバンドを装着する習慣はほとんどなかった。
だがアメリカに留学していた虚埼が、大学病院に導入していたものだと、笠井は語っていた。
くしくも、そのIDバンドが遺体の身元特定の鍵となった。
バンドに記された番号は、病院に残されていた古いカルテと一致した。
その結果、ひとつの身元が明らかとなった。
――有科詠人。
大学病院の闇に葬られた名前が、ようやく“この世”に還ってきた瞬間だった。
*
由里は、夜のゼミ室でひとり作業をしていた。
ニュースで流れた笠井の訃報は、ゼミの仲間たちに少なからぬ動揺を与えていた。だが、作業は待ってくれない。由里は静かに、淡々と資料の整理を続けていた。
奥のパソコン室には、くれぐれも入らないように――遥にそう言われたのを思い出す。
なんとなく、言いつけを守った方がいい気がして、そのドアには近づかなかった。
最後のファイルを閉じ、立ち上がると、ゼミ室にはもう誰もいなかった。
電気を消し、静かにドアを閉める。
夜の大学。長くのびた廊下の向こうに、人影はない。
由里は一人、足音を響かせて歩き始めた。
――コツ、コツ、コツ。
自分の足音に混じって、もう一つ。
微かに、ほんの少し遅れて響く音がある。
(……後ろ?)
心臓が跳ねた。
由里はゆっくりと振り返った。
そこには、誰もいなかった。
「……え? なに……誰……?」
声が、やけに大きく廊下に反響した。
沈黙。誰の返事もない。
ただ、空気の中に――たしかに、"気配"だけが残っていた。
由里は、何かに追われるように、駐車場までの道を全力で駆けた。
闇は静かで、どこまでも深かった。
<了>




