16.D15のロッカー
かつて大学病院の片隅で、封印されたまま開けられることのなかった一つのロッカーがあった。
その番号は「D15」。
失踪した学生、有科詠人。
その名が語られることは少ないが、彼が遺した小さな鍵が、長い沈黙を破る。
*
由里は、病院棟の9階にある一室へと向かっていた。
朝一番で取りつけたアポイント。その足取りには、怒りがにじんでいる。
躊躇のない、強い歩みだった。
エレベーターを降り、右に折れる。すぐ左手に、目当ての部屋が見えた。
ドアの前で立ち止まり、軽くノックする。
「どうぞ」
中から返ってきたのは、意外なほど穏やかな声だった。部屋にいたのは、この大学で“仙人”と呼ばれている男――笠井辰郎。
出世には興味を示さず、静かに研究を続けてきた人物。
有科が託した「15」と書かれた古いロッカーも、部屋の片隅に置かれていた。
私物らしいものはほとんどなく、室内は静謐そのものだった。
「朝から突然の訪問、失礼します」
由里は深く一礼し、胸に抱えていたファイルを持ち直す。
「いらっしゃい。そこにどうぞ」
笠井は手を軽く動かし、ソファを示した。その所作も声も、穏やかさを崩さない。
「失礼します」
由里は腰を下ろすと、すぐにファイルを開いて机に資料を並べた。
笠井はそれに目を落とし、小さくうなずく。
「ああ……」
そのひとことには、長い時を越えて“この瞬間”を待ち続けていた者の響きがあった。
*
由里は、これまでに起きた出来事をひとつひとつ、丁寧に語った。
エレベーターの怪異。備品倉庫での謎の会話。
ゼミ室に現れた虚埼慎也の存在。
語り終えると、机上の資料を指しながら言った。
「これが、私が体験し、調べてきたことのすべてです」
まっすぐに笠井を見据える。
「法的には時効かもしれません。でも、だからといって、これらの行為が許されるとは思いません」
その語気には、静かだが確かな怒りがこもっていた。
「先生は……それを知った上で、絞間先生の下にいらしたんですか?
虚埼の行い、ご存じだったんですか?」
部屋の空気が、ぴたりと止まる。
笠井は無言で立ち上がり、デスクの引き出しを開けた。
中から取り出したのは、小さな鍵――「D15」と書かれたタグが揺れている。
由里の脳裏に、あのエレベーターの光景がよみがえる。
笠井に鍵を手渡す有科ありしな――。
「……本当に、その鍵、先生がお持ちだったんですね」
由里の声は、わずかに詰まっていた。
笠井は鍵を見つめたまま、かすかに笑う。
「有科が、ここにあるって君に伝えたんだろう? あの子は、嘘なんてつかない」
その声には、懐かしさと痛みがにじんでいた。
笠井はゆっくりとロッカーの前へ歩み、鍵を差し込む。
カチリ――重たい音を立てて扉が開いた。
中には、手書きのカルテ、書き込みだらけのノート、複数のオープンリールがぎっしりと詰まっていた。
「このロッカーも、有科から託されたまま、数十年開けることができなかった。ずっと……そのままだ」
しばし沈黙が流れる。やがて、視線を伏せたまま彼は口を開いた。
「私が大学に入学した頃、絞間先生はまだ講師で、変わり者扱いされていてね、でも講義は面白くて、気づけば夢中になってたよ。
二年の終わりに『うちのゼミに来ないか』と声をかけてもらったんだ」
「ゼミ生は私ひとり。地味な道だったけど、先生と二人で研究に没頭したよ」
その表情に、かすかな懐かしさが滲む。
「そんなある年、ゼミに虚埼慎也が入ってきた。彼はまるで時代の寵児だったよ。入学してすぐ、院生顔負けの論文を書いて、医局でも話題になっていたんだ」
「その彼が、三年になって突然、うちのゼミを選んだんだ。みんな、なんでそんな地味なゼミに?って疑問に思ったよ」
「そこから、流れが変わった。絞間ゼミは注目を集め、論文は学会誌に載り、先生は異例のスピードで昇進していった。ゼミは人気になり、大学最大規模になっていたんだ」
「“絞間は次の学長だ”なんて噂も、真面目に囁かれていたくらいだよ」
一瞬、笠井の顔に微笑が浮かぶ。だがすぐに、それはかすかに曇った。
「……でも今にして思えば、あの頃にはもう、何かが少しずつ狂いはじめていたんだろうな」
由里の視線を受け、笠井は静かに続ける。
「正直に言えば、当時は確信していたわけじゃない。際どい実験はあったけど、まさか法を犯してるなんて、思いもしなかった」
「昭和三十五年頃には、ゼミの実権はすでに絞間先生にはなかった。実際に仕切っていたのは、講師になっていた虚埼慎也だった。研究も実験も、すべて彼が主導していた」
「私は助手という肩書きだったけど、研究の核心には一切触れさせてもらえなかった。任されていたのは、機材の整備、実験体の手配、報告書の清書……ただ、それだけだった」
静寂が降りる。
やがて、由里はゆっくりと視線を上げた。
ロッカーの奥に積まれたノートとリール。
そのすべてが、当時の真実を伝えているのか――まるで問いかけるように。
そして今、部屋の空気が、静かに、確実に、次の扉を開けはじめていた。
<第17話へつづく>




