14.Dr.Uのカルテ
備品倉庫の奥深く、封印されるように隠されていた一冊の古びたフォルダ。
中には、治療とは呼べない記録が残されていた。
『視床刺激試験』『海馬冷却』『記憶制御』
そして、すべての記録に共通する術者の名――Dr.U。
その記録は、確かに存在していた。
けれど、そこに記された“声”は、現実のどこにも存在しない。
*
大学からの帰り、由里は車で遥を自宅まで送り届けた。
「――あ、そうそう。忘れてた。これ」
助手席の遥は、古風な数珠袋を由里に手渡す。
中には、先日翡翠の玉が割れてしまった数珠が、きれいに修理された姿で収まっていた。
「えっ、また貸してくれるん?ありがとう!修理代、いくらかかった?」
「かかってないよ。私が直したし、替えの玉も何個もある」
「そんな技、持ってたんや……じゃあ今度、なんかおごるな!」
「わーい」
遥は嬉しそうに両手を上げて笑った。
由里が深刻そうに話を切り出した。
「……あのさ、今晩そっち泊まらせてもらっていい?」
「…でお風呂はひとりで入れるん?」
「お風呂は、できれば一緒に入って」
「わかった、はいはい」
「ほな、送ってくれてありがとう。また後でなー」
「うん、荷物もってまた来るわ!」
そう言って、二人は別れた。
*
翌日。由里と遥は、渋る淳平を半ば強引に連れて、備品倉庫の在庫点検バイトにやって来た。
目的はただ一つ――前回確認できなかった、D10のロッカーに鍵が合うかを試すこと。
「資料にあった高次脳機能研究会のこととか、他の名前の人の情報を調べた方が、今は有意義じゃないですか……」
淳平はそう食い下がったが、どうやら二人は筋金入りの現場主義らしく、あっさり却下された。
ロッカーのある、奥の狭い部屋に入ると、由里はすぐに立ち止まり、小さく息をのんだ。
「遥、開けて」
おびえた声でそう言いながら、鍵をそっと渡す。
淳平は、少し離れた位置――数メートル後ろで、緊張した面持ちで見守っていた。
「わかった」遥が鍵を差し込み、ガチャリと音を立てて扉を開ける。
中は、がらんとしていた。
「……空っぽやん」
由里が肩の力を抜き、少し落胆した声をもらす。
「由里、ロッカーの天井のとこ、届く?」
「え?あー、ちょっと無理かも。なんで?」
「さっき……そこになんか、仕込んでるの見えた」
「えっ、いつ?なにが?」
「髪の色が薄い茶色っぽい、雰囲気イケメンの男の人が、天井のあたりをいじってた」
「……有科、かな?」
「そうかもな」
「黒崎さんじゃなくて、有科さん見たかったわ〜。雰囲気イケメンの」
「つまり、黒崎さんはイケメンじゃないってことやな」
遥が淡々と突っ込む。
「あっ、あのっ」
淳平が、数メートル後ろからおずおずと声をかけてきた。
「なに?」
由里が振り返る。
「黒崎さんって……ほんとに“クロサキ”さんなんでしょうか?昨日見せてもらった資料、読み返してて……ちょっと気になって……」
「え、どういうこと?」
遥と由里が興味津々で淳平の方へ歩み寄る。
「ほら、あの研究員の名前……『虚埼』って書いてあったじゃないですか。あれ、“ウロサキ”って読むんじゃないかなって……」
「えっ、あれで“ウロサキ”?!」
由里が目を丸くする。
「た、たぶん……ですけど」
淳平は相変わらず自信なさそうだ。
「私、“キョサキ”って読んでたわ〜。変わった名前やなーって思ってたけど」
遥がのんきに言う。
「……そういえば、黒崎さんの名前、文字で見たことなかったかも」
由里は小さくつぶやき、少しだけ表情をこわばらせた。
その後、淳平がどこからか踏み台を持ってきて、慎重にD10のロッカーの天井に手を伸ばした。
指先で探ると、パネルのような板がカタリと外れ――中から、古びたフォルダが一冊、出てきた。
「うわっ、ほんまになんかあるやん!」
由里が目を丸くして叫ぶ。
3人はしばし無言で顔を見合わせたあと、そっとそのフォルダを抱え、備品倉庫の奥へと移動。
ついでに、別の部屋の段ボール在庫も手早くチェックして、そそくさと倉庫を後にした。
*
バイトが終わったあと、3人は再びラウンジの一角に腰を下ろしていた。
誰も口を開かないまま、しばらく沈黙が続く。
やがて、由里が静かに、手元のファイルから数枚のコピー用紙を取り出し、テーブルの上に並べた。
それは、備品倉庫のD10ロッカーから見つかった、古いカルテの複写だった。
一見、通常の診療記録に見えるが――細かく読み込むほどに、不自然な文言がいくつも浮かび上がる。
その内容は、明らかに正規の医療行為とは異なり、人体実験を示唆するものだった。
「……これ、ロッカーの中にあったカルテのコピー」
由里がぼそりと言った。
「これほんとに……出してきてよかったんですか……?しかも、もうコピーまで……」
淳平は顔を引きつらせながら、青ざめた声で言った。
彼の手は、気づかぬうちに自分の膝の上でぎゅっと握りしめられていた。
「在庫管理の一環やん?」
由里が、わざとらしく無邪気な笑顔を浮かべる。
「……まぁ、確かに」
常識より好奇心が勝ったらしく、淳平は黙ってコピーに目を落とした。
カルテに記されていたのは、脳への直接的な処置だった。
『視床刺激試験/電極埋設』
『海馬冷却処置』
『ホルモン誘導制御』
『記憶制御試験』
そのどれもが、もし公に出れば明確に医療倫理を逸脱すると判断される内容だった。
そして、すべての記録に共通して書かれていたのは――
「術者:Dr.U」というイニシャル。
手術の実施時期は、昭和30年から昭和35年にかけて。
「Dr.U……?」
遥が眉をひそめる。
「ウロサキ?」
3人の声が、ほぼ同時に重なった。
「普通のカルテなら、ここには担当医の実名が記載されるはず。でも、こんなふうにイニシャルだけってことは……自分でも“やましいこと”やってるって自覚してたんやと思う」
由里は、表情を変えずに言った。
「それに……患者名も、“被験体No.”としか書かれていません」
ページをめくりながら、淳平が指でその行を示す。
「つまりこれは、治療じゃない。――最初から、“実験”として扱ってたってことです」
その瞬間、由里の脳裏に、あの時の映像がよみがえった。
笑顔のまま、静かに歩み寄ってきた虚埼。
――『D棟での実験に、付き合ってほしいんだ』
耳に残るその声は、現実のどこにも存在しないはずのものだった。
<第15話へつづく>




