三番目の兄
自分のベッドに寝転びながら、アレクスは天井に描かれた装飾をぼんやりと眺めた。目覚めた時は、赤い模様だったが、今、天井には緑の模様が描かれている。
リュネ家を象徴する緑の模様を辿りながら、昨夜から今朝までの怒涛の出来事について、順を追って思い出してみる。
昨日の夜、夜会へ行った。一緒に行ったのは、三番目の兄クルトとその妻リトヤ。二人の馬車に乗せてもらった。
その後は…、いくら思い出そうとしても、レティの部屋でギュンに起こされたところまで記憶がない。馬車には乗ったけど、本当に夜会へ行ったのか?誰と話して、誰と踊った?酒は飲んだ?一つ一つをじっくり考えてみるが、何も思い出せない。一体自分の記憶はなぜ消えてしまっているのか。何も思い出せず、アレクスは途方に暮れた。
部屋の戸が大きく叩かれた。アレクスが応える前に、慌てた様子でドアを開けて入って来たのは、三番目の兄クルトだった。クルトはまだ正装を解いておらず、王宮から下がって、すぐにアレクスのところに来たようだ。
「アレクス、お前…」
アレクス…。普段、あだ名でしか呼ばないクルトが、珍しく名前を呼んだので、アレクスはものすごい引っかりを覚えた。
「アレクス…」
「そうだ、アレクス。お前のことだ」
ぼんやりと自分の手を見下ろしているアレクスを、クルトはしばらく眺めていたが、それどころではないとばかりに話し始めた。
「アレクス、お前に、聞きたいことがある」
「聞きたいこと?俺も兄さんに聞きたいことがあったんだ」
アレクスはベッドに腰掛けるよう座った。
クルトの息が少し上がっている。
「お前、今朝、レティと…」
先を言おうとして、クルトはふと思いとどまり、少し呼吸を落ち着けた。
「お前、昨日、プロガムに泊まったのか?」
「ええっ?!」
なぜ、プロガムのものと自分しか知らないことを、王宮から戻ってきたばかりのクルトが知っているのだ。
「どうなんだ?」
クルトがたたみかける。黙っているアレクスにクルトがしびれを切らして叫んだ。
「昨夜、お前が、プロガムでレティと夜を過ごしていたと、王宮で話題になっているぞ!」
「どうして?!」
「わからん。俺も、お前とレティは婚約してたのかと、何度も聞かれるもんだから、おかしいと思って仲のいい友達に聞いたんだ。そしたら、言いにくそうに、昨晩お前がレティと一緒だったって。しかも、その時の状況まで詳しく噂になってるって言われて…」
「詳しくって、どんな?」
アレクスは前のめりになって聞いた。
「それはお前、レティのことを考えたら、大っぴらに言えない内容だよ。…その、つまり…、…二人が何も着ずに、一緒に寝てたところを家族に起こされたって」
あまりの衝撃に、アレクスは、額に手を当てて天を仰いだ。クルトが、部屋中に響き渡る大声で叫ぶ。
「本当なのか!?お前!」
アレクスは、困ったようにクルトを見た。
この正直だけが取り柄の弟が、黙っていることが何よりの肯定だった。
「お前!レティとそういう関係だったのか?レティはナシルと婚約が決まってたんだぞ。それなのに!」
「違う。待ってくれ、兄さん」
「待ってなどいられるか!王宮では、お前がナシルからレティを寝とったって話になってるんだぞ。レティに至っては、四公家の幼馴染二人を手玉に取る、…その、淫乱だとまで」
「俺が、寝とる!?それにレティが淫乱!?」
アレクスは人の噂の恐ろしさに身震いした。自分はともかく、まじめ一辺倒のレティがこんな中傷にあう日がこようとは、誰が想像できただろう。
「そうだ。だから、今、お前とレティの評判はかつてないほど悪い。そして、俺たちリュネの評判も」
「違うのに!」
「違うだと?何が違うっていうんだ。お前、世間はレティとナシルが婚約すると思ってたし、認めてもいたんだ。なのに、お前ときたら…」
大きな手で頭を抱え込みながら、クルトはソファにどっさりと座り込んだ。それからしばらくして、確認するように言った。
「念のため確認しておくが、お前、レティのこと、好きだったのか?」
「…違う」
「だよなぁ。お前はニナのために…」
ニナの名前を出してすぐ、クルトは気まずそうな顔をした。
「とにかく、なんでそうなったか説明してみろ。俺にだったら話せるだろ?」
アレクスは昨夜から今朝の出来事を、できるだけしっかりと思い出しながらクルトに話した。聞き終わったクルトは、髪をぐしゃぐしゃとかいて、しばらく考えているようだった。
「それじゃ、お前、馬車に乗った後からの記憶がないってことか?」
「そうなんだ。俺、馬車には乗せてもらったけど、その後夜会へ行ったのかな?途中で馬車を降りたりしなかった?」
「お前は俺たちと夜会へ行ったよ。広間へも一緒に入ったし、お前、リトヤとも踊ってたじゃないか。…本当に何も覚えてないのか?」
「うん。全く覚えてない。じゃあ、俺、夜会で酔っ払ったり、おかしなところはなかった?」
「普通だったよ。酔っ払ってもなかったし、おかしなところもなかった」
「そういえば、レティは、俺が早い時間にいなくなってたって言ってたけど、その辺は何か覚えてる?」
クルトは兄弟の中で、ずば抜けて記憶がいい。ここはクルトの記憶にすがるしかない。
「そうだな。そういえば、お前、いつからか知らんがいなかったな。お前のいつものパートナーたちに聞かれたよ。アレクスはきてないのかって。あの老婦人たち、お前と踊るのをすごく楽しみにしてるからな。お前がいないせいで、何人か、俺が相手をさせられたぞ。しかし、お前も本当に人がいいな。あの人たちに誘われたら、一人も断らずに付き合ってやるんだから」
話題がそれてしまったことに気づいて、クルトは急いで話を元にもどした。
「いや、今はそんな話じゃない。ちょっと待て。思い出してみるから」
そう言って、クルトは目を閉じて眉間にしわを寄せ、黙り込んだ。
「お前、最初の休みぐらいにはもういなかったんじゃないか?最初にアレクはいないのかって聞かれたのが、二回めの演奏の前だったからな。俺もリトヤも一緒に会場を見回したが、お前のこと、見つけられなかったよ」
「二回めの演奏の時、俺はもういなかったんだ。それで、一回めのどこかでリトヤと踊った。レティも、いつもは踊るけど、昨日は踊らなかったって言ってた。うーん、だめだ!やっぱり何も思い出せない」
アレクスはガリガリと頭を掻きむしった。
「兄さん、他に何か覚えてることないの?」
「そうだな。リトヤとお前は一回めで踊ったわけだから、一回めの時は基本的に誰かと踊ってるはずだよな。で、二回めの前に婆さんたちにお前の居場所を聞かれたから…。要は一回めと二回めの合間の休憩を思い出せばいいんだな。ちょっと待て」
クルトはまた目をつぶった。
「やっぱりお前がどうしてたかは思い出せないな。けど、レティのことなら覚えてる。壁際で、ナシルと二人で話してた。婚約発表間近だと聞いていたし、本当にお似合いだと思って見てたんだ。そこはしっかり覚えてる」
「レティは夜会に行って、眠るまでの記憶はあるらしいんだ。夜会からはユルドと帰ってきたって言ってた」
「そうだ。ユルドも近くにいたな。ああ、レティとナシルの隣で女たちに囲まれてた。プロガムの魔力は凄まじいと思って見てたんだ。ユルドなんて、まだ子供なのに、しっかりと女を惹きつけるんだと思ってね。当のユルドは嫌そうにしてたがな。けど、プロガムの血を引いて生まれた以上、避けて通れない道だからな」
「他には何か思い出せない?」
「うーん。王は来られてたけど、踊らずに玉座にいらしたな。アシュリは王の隣に付いていた。アキはいなかったし、パヴェル様も来られてなかったな。あの方が公の場に出られることは滅多にないから、これも普通だな。あとは誰だ?うちの親父も、他の四公もいらしてたけど、みんないろんな方達と話されていたな。ヨエル兄さんも来てた。こうやって思い出してみると、関係ありそうなのであの場にいなかったのは、お前だけじゃないか?」
「それじゃ、何もわからないじゃないか。ほんとに何か変わったところはなかったの?」
「ちょっと待て」
クルトはまた目を閉じた。
「双子…。プロガムの双子がレティの近くにいなかったぞ。あいつら、いつもレティの近くにいるじゃないか。…あれ?ちょっと待てよ。思い出せない。どこにいたんだ?」
クルトの眉間のしわはさらに深くなった。
「あれ?おかしいな。あいつら、あの場にいたっけ?レティの近くにいたのは、ナシルとユルドとユルドに群がる女たちだけだった気がするぞ」
「ちょっと気になったんだけど、兄さん。ユルドが取り巻かれてたって、おかしくないか?ユルドの取り巻きは、いつもなら双子がうまい具合にさばいてるだろ」
「そういえば、そうだな。ユルドが取り巻かれてたことが記憶に残ってること自体が変だ。双子はユルドのことも、うるさいぐらい、いろんなものから守ってるからな」
「いなかったのは、俺と双子…」
「けどお前、あれだろ。いつも双子に絡まれてるじゃないか?昨日はどうだったんだ?奴らの不在が、お前に絡みに行ってたからだとすると、お前と双子がいなくても説明がつくぞ」
双子と聞いて、アレクスは何か思い出さねばならないような気がした。でも何も思い出せない。
「だめだ。やっぱり思い出せない。誰か他に俺を見てなかったかな?兄さん、誰か俺を見た人がいないかどうか、王宮で聞いてみてくれない?」
「わかった。やってみるよ。けど、聞けるのは本当に少数の、気の許せる奴らだけだぞ」
「俺は双子に何か知らないか聞いてみるよ」
クルトが目をむいて叫んだ。
「双子に聞くって?!双子は今朝、お前を殺しそうだったって聞いてるぞ。そんな奴らにどうやって聞くんだ?!」
たしかに今朝の二人はそんな勢いだった。アレクスは噂の正確さに改めて驚いた。おそらく、世間に広まったのは、噂ではなく、本当に今朝あったことなのだ。
「そこまで噂になってるの?プロガムからそんな話が事細かに漏れるなんて、おかしくないか?」
「そうだな。プロガムのことがこんなに外に漏れるなんて、前代未聞だ」
二人が目を見合わせたその時、ドアが叩かれた。
「どうぞ」
アレクスが答えると、入ってきたのはクルトの妻リトヤだった。
「どうしたの、珍しい」
リトヤは、夫が、アレクスのところへ来ているのを確かめて言った。
「知らせておいた方がいいと思って。シンドから、早馬が来たの。先ほど、お父様とヨエル様が難しい顔して話していらしたわ。ロドル様が、明後日、臨時の会議を招集されるって」
アレクスとクルトは顔を見合わせた。シンド家当主のロドルが臨時の四公会議を招集したとなると、すでに話はシンドにも届いているのだろう。事態は予想をはるかに上回る速さで展開していた。




