マルトの執務室
ご訪問いただきありがとうございます。 m(_ _)m
ところどころに赤い装飾が飾られた長い廊下を、レティとアレクスは連れ立って歩いていく。
壁には、アズヴェルト国軍総帥の肖像画が、初代から現総帥のマルトまでずらりと並んでいる。建国以来、軍の総帥という重責を担ってきたプロガム家当主たちの顔だ。次は、マルトの長子であるレティがここに加わる。
レティは重厚な彫りが施された扉の前で立ち止まった。静かに息を吸い、扉をノックする。
「私です」
「入れ」
中からよく響く大きな声がする。
マルトの執務室に入った二人は、かかとをあわせ、直立不動の姿勢をとった。
アズヴェルト軍総帥、かつプロガム家当主であるマルトは、窓を背に、大きな机に向かっていた。壁には、アズヴェルトを中心とした世界地図が描かれ、その手前には、アズヴェルトと近隣諸国の山や川などを忠実に再現した立体模型が置かれている。北側のプロガム領の国境付近には、駐留軍を表す積み木のようなものがぐるりと配置されている。
「レティ」
マルトが口を開いた。
「今朝のことについて、あえて申し開きは聞かぬ」
アレクスはレティの反論を期待したが、レティはただ黙っている。
「お前が部屋に男を連れ込む日がこようなど、私は想像してもいなかった」
マルトの額には、青筋が立っている。冷静の中に、激しい怒りが垣間見える。
「先日言ったとおり、お前とナシルの婚約がまとまった。王の承認を得たあと、すぐに発表する運びになっていた…」
アレクスは驚いてレティの横顔を見た。レティは眉一つ動かさない。
「プロガムの長子は、婚約が決まり次第、婚約者と床を共にし、子を成して初めて婚姻が許される。お前もよく知っているプロガム長子の掟だ。未来のプロガム当主にとって、婚約すなわち婚姻となる。婚約者とならば、お前が朝寝をしようが、子を作ろうが構わぬが、それがシンドのナシルではなく、リュネのアレクスとはどういう了見だ?」
レティが何も答えないのを見て、マルトはさらにたたみかける。
「建国以来、我が国が、王家と四公家の協力によって支えられてきたということは、お前も重々承知だろう。その四公家の間で、婚約者がいながら間男も作るとは!お前はなんという恥知らずだ!」
マルトの青筋が、怒りで今にもはち切れそうだ。
「これが明るみに出れば、シンドは怒り狂うぞ。仮に我が家がシンドだったら、この男の首をもらい受けるぐらいはする」
激しい叱責に対しても、レティは表情一つ変えない。
「いうことはあるか?」
レティは神妙な面持ちで、ただ黙っている。
「あの…」
アレクスが口を挟むと、マルトはアレクスに一瞥もくれず、怒りを押し殺した声で言った。
「お前に発言は許していない」
「でも、マルト。俺とレティは何もなかったんです」
かろうじて冷静を保とうとしていたマルトが、一瞬でその場から消えた。マルトは、思い切り机を叩き、立ち上がった。それから、ものすごい目でアレクスを睨みながら、足早に歩いてくる。
「何もない?何もないだと?」
アレクスの胸ぐらを掴んで、吊るし上げながら、大きな声で叫ぶ。
「お前は本物の馬鹿か?あんな格好で女と寝ておいて、何もないなど、どこの誰が信じる!」
マルトはアレクスを思いっきり床に叩きつけた。アレクスは、背中を激しく打ってむせた。息ができない。
「アレク!」
レティがかけ寄って、アレクスの背をさする。
「お父様!」
レティはマルトを責めるように見た。
「このぐらいでむせるような男に、プロガムの婿はつとまらぬ。お前も、間男を作るなら、いくらでもましなのがいただろうに!」
マルトは怒りで強く拳を握りしめていた。殴られたら、鼻の骨はおろか、頭の骨まで砕けそうだ。レティが、アレクスとマルトの間に立ちはだかる。
「父上!」
レティの身を呈した抗議に、マルトの勢いが少し削がれる。
「婚約が破談になろうものなら、リュネの五男坊、お前には責任を取ってもらうぞ。皮を剥いで街道沿いの木に吊るすか、北部へ飛ばして鳥の餌にするか。いずれにせよ、覚悟しておくんだな」
マルトは忌々しそうにアレクスを睨みつけ、荒々しく部屋を出て行った。
「アレク…」
レティは心配そうにアレクスの背中をさすった。
アレクスはまだむせている。
「…俺、どっか折れてない?」
レティは心配そうな顔で笑って、アレクスの腕を肩に回して立ち上がり、ソファに座らせた。
「ごめんなさい。父が…。普段は取り乱したりしない人なのに…」
「そんなこと…。それよりレティ、ナシルと…」
アレクスを遮るように、レティは笑いをかみ殺しながら言った。
「あなた、あの状態のお父様に口を挟むなんて、正気と思えないわ。ああいう時は、お父様が落ち着くまで、黙って神妙に聞いていればいいのよ」
「そういう大事なことは、部屋に入る前に言ってくれよ」
レティがいたずらっぽく笑うので、アレクスもつられて笑った。
レティはアレクスを子供の頃のように優しく抱きしめ、アレクスの肩に顎を乗せた。
「でも、ほんとに、なぜこうなったのかしら?」
レティの問いかけに、アレクスは天井を仰いだ。天井には、アズヴェルト王家の紋章を中心に、四公家の家紋ががっちりと四方を支えるように描かれている。
「うーん。俺もさっぱりわからない。すごく言いにくいんだけど、実は俺、まったく何も覚えてないんだ。俺がどうしてここにいたのかも、どうやってここにきたのかも。夜会のことも。かろうじて夜会に行くまでの記憶があるぐらい…」
「でしょうね。さっき、私が昨日のこと聞いた時、あなた、私と踊ったようなこと言ってたけど、実は、私たち、昨日、踊らなかったの。あなた、途中からいなくなってたわ」
自分が何も覚えていないことなど、レティにはすっかりお見通しだったのだ。アレクスは、レティに申しわけなく思った。
アレクスは反対にレティに聞いてみた。
「レティは、その…。何か覚えてる?」
「…いいえ。さっき言ったとおり、昨夜家に戻って眠ったところまでは覚えてるの。戻った時、あなたと一緒じゃなかったのは、ユルドとミルカ、あ、ミルカっていうのは、今朝部屋にいた私の侍女のことね。その二人が証言してくれるわ。だけど、私も、眠ってから起こされるまでの記憶が全くないの」
「じゃ、いつから俺が隣に寝てたかもわからない?」
「ええ。でも、自分で言うのもなんだけど、私、職業柄、眠った時もどこか目覚めてると言うか、神経が尖っているのよね。少しの物音でも、目がさめるの。軍務の時、深く眠り込んだりしたら大変でしょ。だからあんな風に隣に人が寝ていて、しかもたくさんの人が部屋に入ってきているのにまだ起きなかったなんて、ちょっとありえないと思うのよ。家の中ですら、弟や使用人の一人でも廊下を歩いたら、気配を感じるぐらいだから」
アレクスは、眠ったら全く起きない自分とは大違いだと思いながら、レティの話を聞いていた。
「あなたは夜会の記憶がないのよね。だけど、夜会で見かけたあなたは、酔っ払ったりしてなかったし、どこもおかしなところはなかったわ」
レティはアレクスの背を撫でていた手を止めて体を離し、アレクスの顔を見た。
「あなた、夜会で誰と話したとか、何をしたとか、少しでも思い出せそうにない?」
アレクスはまた天井を仰いだ。
「今は無理そうだ。だけど、夜会のことなら家族に聞けば何か思い出せるかもしれない」
「じゃあ、できる限りやってみて。私も、なんとかするから。私たちが、よっぽど自分の気持ちに不誠実な馬鹿じゃない限り、記憶もないのにあんなことにはならないわ。これを仕組んだ人間がどこかにいるはずよ。見つけたら仕返ししてやらないとね」
レティはいたずらっ子のように笑った。
すっかり大人になって、アズヴェルト一の美女などともてはやされている幼馴染の中身は、少女の頃と全然変わっていない。アレクスは思わず笑わずにいられなかった。




