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第五話|時計塔の上で

ギィィ――。


 古びた木の扉が、ゆっくりと開いた。


 その向こうの薄暗い空間から、埃と木材、それに湿った石壁の匂いが漂ってくる。


「げほっ、げほっ!」


 ルーンは中をのぞき込んだ途端、舞い上がった埃にむせ返った。


「うわっ! ここ、すごく汚いよ!」


「こらこら、もう少し言い方ってものがあるだろう」


 セイロは道具箱を提げながら、ゆっくりと近づいてきた。


「古い建物なんて、こんなものさ。それに、わしみたいな年寄りが毎日上り下りして掃除するのは大変なんだよ」


「でも、おじいちゃん、毎日時計を直してるんじゃないの?」


「時計の修理と掃除は別の話だ」


「何が違うの?」


「もちろん違うさ。修理はわしの仕事だが、掃除は腰にくるからねえ」


 ルーンは首をかしげた。


「でも、修理だって腰が痛くなるんじゃない?」


「……」


 セイロは少し黙った。


「お前さん、今日はいつにも増して口が達者だね」


 後ろに立っていたシーナが、こらえきれずに笑い出した。


「セイロおじいちゃん、相手にしなくていいよ」


「シーナ! なんでまたそっちの味方をするんだよ!」


「だって、本当にうるさいんだもん」


「うるさくない!」


 二人はまた言い合いを始めた。


 セイロは呆れたように首を振る。


「はいはい。そんなことをしていたら、日が暮れてしまうよ」


 足元に道具箱を置き、扉の奥を指さした。


「先に言っておくけど、上には古いものがたくさんある。勝手に触ったり、階段で追いかけっこしたりしないこと」


「わかった!」


 ルーンは元気よく返事をした。


 セイロは目を細める。


「特に、お前さんだよ」


「なんで僕だけ!」


「一番心配なのがお前さんだからさ」


 シーナがまた笑った。


 ルーンは不満そうに頬を膨らませたが、おとなしく脇に寄った。


*


 時計塔の中は、ルーンが想像していたよりもずっと狭かった。


 木造の階段が石壁に沿って上へ続き、何度か折れ曲がった先で、薄暗い天井の向こうへ消えている。


 壁には細長い窓がいくつか開けられていた。


 外から差し込む陽光が、階段の上に斜めの光を落としている。


 空気中には、細かな埃が漂っていた。


 誰かが歩くたび、その粒が光の中でゆっくりと舞い上がる。


「わあ……」


 ルーンは顔を上げた。


「中って、こんなふうになってたんだ」


 生まれたときから、ずっと灰穂村で暮らしてきた。


 この時計塔は、ほとんど毎日のように目にしている。


 家の窓から外を眺めるときも、村の道を歩いているときも。


 少し顔を上げれば、十一時四十七分で止まった二本の針が見えた。


 けれど、中へ入るのは初めてだった。


「思ったより高いなあ!」


 ルーンは嬉しそうに一段目へ足をかけた。


 ギシッ。


 足元で、小さな音が鳴った。


「……」


 ルーンはぴたりと動きを止めた。


 そっと足元を見る。


「セイロおじいちゃん」


「何だい?」


「これ……急に壊れたりしないよね?」


 セイロはちらりと少年を見た。


「上でぴょんぴょん跳ねたら、壊れるかもしれないねえ」


 ルーンは慌てて、もう片方の足を引っ込めた。


 シーナが吹き出す。


「さっきまで、あんなに上りたがってたのに」


「安全かどうか確認しただけだよ!」


「へえ、そうなんだ」


「何、その言い方!」


 セイロは二人の横を通り過ぎた。


「安心しなさい。音がするからといって、すぐ壊れるわけじゃないよ」


 手すりを軽く叩く。


「この階段は、お前さんたち二人の年を足したよりも、ずっと長くここにあるんだから」


「それって、余計に危なくない!?」


 思わず言い返したルーンに、セイロは肩を揺らして笑った。


「はっはっは! 本当に面白い子だねえ!」


 シーナも笑いながら首を振った。


「ほら、早く行こうよ」


 そう言って、ルーンの背中を軽く押す。


 少年はようやく、もう一度階段を上り始めた。


 古い木の板が、足元で規則的に鳴る。


 ギシッ。


 ギシッ。


 三人の足音が、狭い階段に響いていた。


 ときおり窓から風が入り、外にいる村人たちの話し声を運んでくる。


 その聞き慣れた声も、高く上るにつれて、少しずつ遠ざかっていった。


*


 どれくらい上っただろう。


 ルーンは、そろそろ脚が疲れてきた。


「セイロおじいちゃん……」


「ん?」


「あと、どれくらい?」


「もう少しだよ」


「さっきもそう言ったじゃん!」


「だったら、本当にもう少しなんだろうね」


「でも、ずっと歩いてるよ!」


 セイロは振り返った。


「おや。今朝はお父さんと剣の稽古をしていたんだろう? もう疲れたのかい?」


 ルーンはすぐに背筋を伸ばす。


「疲れてない!」


 後ろを歩いていたシーナが顔を上げた。


「でも、さっきから息が荒いよ」


「ここの空気が悪いだけ!」


「なるほどねえ」


「毎回そういう言い方するの、やめてよ!」


 セイロは笑いながら階段を上り続けた。


 さらに一度曲がったところで、前方に明るい光が見えた。


「さあ」


 老人が足を止める。


「着いたよ」


「本当!?」


 ルーンの目が輝いた。


 足早に最後の階段を上り切る。


 しかし、目の前に広がった光景に、思わず立ち止まった。


*


 時計塔の上部には、太い木の梁で支えられた、広い空間があった。


 薄暗かった階段とは違い、四方には大きな窓が開いている。


 朝の陽光が遮られることなく差し込み、古い床板を温かな金色に染めていた。


 頭上では、何本もの太い梁が交差している。


 その中央に、一つの巨大な銅鐘が吊るされていた。


 鐘の表面には、長い年月の間に刻まれた染みや傷が残っている。


 ところどころ、かつての輝きを失っていた。


 高いところからは太い縄が何本も垂れ下がり、木製の鐘を鳴らす仕組みへとつながっている。


「わあ……」


 ルーンはゆっくりと近づいた。


 自分の背丈よりも大きな銅鐘を見上げる。


「これが、警報の鐘?」


「そうだよ」


 セイロは道具箱を脇に置いた。


「普段は見えないだろう?」


「うん!」


 ルーンは興味深そうに、銅鐘の周りを一周した。


「すっごく大きい……」


 手を伸ばし、鐘の表面に触れようとする。


「ルーン」


 突然、セイロの声がした。


 少年の手が止まる。


「勝手に触らないこと」


「ちょっと触ってみたいだけだよ!」


「ちょっとでも駄目だ」


 老人は少年のそばへ歩いてきた。


「この鐘の音は遠くまで響く。もし間違って鳴らしてしまったら、村のみんなが何かあったと思ってしまうだろう?」


 ルーンはきょとんとした。


「そんなに大きな音がするの?」


「もちろんさ」


 セイロは鐘につながる装置を指さした。


「正しい場所を、正しい力で叩けば、村じゅうに鐘の音が届く」


「村の外にある畑でも、はっきり聞こえるんだよ」


 ルーンはもう一度、銅鐘を見上げた。


 今はただ、静かに吊るされているだけなのに。


 これほど大きなものが、一度鳴れば村のみんなにその音を届けられる。


 なんだか、不思議だった。


「すごいなあ……」


 その隣で、シーナが静かに尋ねた。


「セイロおじいちゃん。この鐘は昔、よく鳴っていたの?」


 老人の手が止まる。


「昔はねえ……」


 顔を上げ、鐘を見つめた。


 しばらくして、ゆっくりと答える。


「ときどき鳴っていたよ」


「火事や洪水、それに村の近くへ危険が迫ったときには、誰かがここへ来て鐘を鳴らしたものさ」


「じゃあ、今は?」


「今かい?」


 セイロは少し笑った。


「今は、一度も鳴らないほうがいいね」


 ルーンは不思議そうな顔をした。


「どうして?」


 老人は振り返った。


「警報の鐘が鳴るということは、誰かが危険な目に遭っているということだからね」


 その声は、決して厳しいものではなかった。


 ただ、ごく当たり前のことを話しているようだった。


「わしが毎日こうして直しているのは、いつか鐘の音を聞きたいからじゃないんだよ」


「本当に必要になったとき、ちゃんと鳴ってくれるようにするためさ」


 ルーンは黙り込んだ。


 頭上の銅鐘を見つめる。


 さっきまでは珍しくて仕方がなかったものが、今は少し違って見えた。


 シーナも何も言わなかった。


 窓から入り込んだ風が、垂れ下がった縄の先をかすかに揺らしていた。


*


「さて」


 セイロは道具箱を開いた。


「わしは、この古い縄を取り替えないとね」


 窓の近くにある一本の縄を指さす。


「お前さんたちは、あっちから外を見てくるといい。ただし、あまり身を乗り出さないように」


「うん!」


 ルーンは元気よく答えた。


 一方、シーナは道具箱に近づき、新しい縄を取り出す。


「これ?」


「そうそう、それだ」


「持っていようか?」


「ほっほっ。本当に気の利く子だねえ」


 セイロは麻縄を受け取った。


「走り回ることしか考えていない、どこかの小僧とは大違いだ」


「聞こえてるよ!」


 窓際からルーンが振り返る。


 シーナは笑って、ぺろりと舌を出した。


 少年が言い返そうとした、そのとき。


 ふと窓の外へ目を向けた。


「……あれ?」


 ゆっくりと窓へ近づく。


 さっきまで言おうとしていた言葉は、すっかり頭から消えていた。


「シーナ」


「ん?」


「ちょっと、こっちに来て」


 少女は不思議そうに首をかしげた。


「どうしたの?」


「見てよ!」


 ルーンが窓の外を指さした。


 シーナは少年の隣へ歩いていく。


 そして、目を大きく見開いた。


「……わあ」


 灰穂村の全景が、二人の目の前に広がっていた。


*


 時計塔から見下ろす村は、普段とはまるで違って見えた。


 いつも歩いている道は、細長い線のように伸びている。


 木造の家々の屋根は道に沿って並び、まるで大きさの違う積み木を、誰かが地面に置いたようだった。


 村の中央にある井戸のそばでは、何人かの女性が話をしている。


 少し離れたところでは、子供たちが一羽の雌鶏を追いかけ回し、近くの大人に何度も注意されていた。


 干し草を積んだ手押し車を押しながら、一人の農夫がゆっくりと道を進んでいる。


 遠くの麦畑は、陽光を受けて黄金色に輝いていた。


 風が吹く。


 すると、金色の波が、畑の端から端へゆっくりと広がっていった。


「僕たちの村って、こんなふうになってたんだ……」


 ルーンは窓際から外を眺め、思わず声を漏らした。


 隣に立つシーナもうなずく。


「本当に、きれい……」


 二人はしばらく黙って景色を見つめた。


 いつもは何とも思わなかったものが、こうして高いところから見ると、なぜか特別なものに感じられる。


「あっ!」


 ルーンが突然、ある方向を指さした。


「見て! あれ、僕の家だ!」


 シーナも目を向けた。


 何軒かの木造の家に囲まれて、確かにヴィル家の屋根が見える。


「本当だ」


「あっちはヘドおじさんたちの詰め所!」


「うん」


「それから、あそこ! 今朝、父さんと剣の稽古をした場所だよ!」


 ルーンは嬉しそうに、次々と指さしていく。


 シーナはそんな少年を見て、思わず笑った。


「そんなところまで説明しなくてもわかるよ」


「だって、ここから見ると全然違うんだもん!」


 ルーンは振り返った。


「すごいと思わない?」


 シーナは小さく微笑んだ。


「うん。すごいね」


 二人は再び遠くへ目を向けた。


 村の外には、広い畑と森が続いている。


 村の入口から伸びる一本の道は、麦畑の間を抜け、やがて遠くの丘の向こうへ消えていた。


 ルーンの視線は、いつの間にかその道に留まっていた。


「……シーナ」


「なあに?」


「あの道って、ログへ続いている道だよね?」


 シーナは彼の視線を追った。


「うん、そうだと思う」


「歩いたら二日もかかるんだよね?」


「大人たちはそう言ってたね」


 ルーンは窓のそばで、道の先をじっと見つめた。


「遠いなあ……」


「そうだね」


「でも、ここから見ると、そんなに遠くない気もする」


 シーナは少年を見た。


「また何か考えてるの?」


 ルーンはすぐには答えなかった。


 自分がまだ一度も歩いたことのない道を、ただ見つめている。


 しばらくして、小さく口を開いた。


「考えてたんだ……」


「山の向こうって、いったいどんなところなんだろうって」


 シーナは少し目を見開いた。


 ルーンの瞳には、遠い空が映っている。


「父さんは昔、いろんな場所へ行ったことがあるんだって」


「でも、外の世界がどんなところなのか聞いても、あんまり教えてくれないんだ」


「だから、ずっと気になってる」


 少年は遠くを指さした。


「ログって、僕たちの村よりずっと大きいのかな?」


「そこに住んでいる人たちは、毎日いろんなものを見てるのかな?」


「それに、本物の災器使や災契使たちも……」


 話しているうちに、ルーンの声はどんどん弾んでいった。


「いつか僕もあんなふうに強くなれたら、いろんな場所へ冒険に行けるかな?」


 シーナはすぐには答えなかった。


 遠くへ伸びる道を眺める。


「……行けるんじゃないかな」


「だよね!」


 ルーンは振り返り、明るく笑った。


「やっぱりそうだよね!」


 シーナもつられて笑ってしまった。


「本当に冒険が好きだね」


「もちろん!」


「外が危険でも?」


「……」


 ルーンは少し黙った。


 シーナは続ける。


「父さんや母さんたち、いつも言ってるでしょう? 村の外には危ない場所がたくさんあるって」


「本当に災裔に出会ったら、どうするの?」


 ルーンはしばらく考えた。


 そして、手にした木剣を握り直す。


「だから、強くならなきゃいけないんだ」


 シーナは少年を見つめた。


「僕が父さんみたいに強くなれたら……」


 ルーンは遠くの景色を見ながら、期待に満ちた声で言った。


「きっと、大切な人たちを守れるから」


 シーナは何も言わなかった。


 ただ、窓際に立つルーンを静かに見ていた。


 陽光が少年の横顔を照らしている。


 その瞳は、未来への憧れでいっぱいだった。


 ふと、シーナは幼い頃のことを思い出した。


 どうして毎日、そんなに大変な剣の稽古をするの?


 以前、そう尋ねたことがあった。


 あのときもルーンは、似たようなことを言っていた。


 強くなりたいから。


 みんなを守りたいから。


 あれから何年も経ったのに。


 この男の子の考えは、少しも変わっていないようだった。


「……まったく」


 シーナは小さく笑う。


「本当に、昔から変わらないね」


「え?」


「何でもない」


 少女は顔を戻し、遠くを眺めた。


 そこには、まだ見たことのない街がある。


 歩いたことのない道がある。


 そして、まだ出会ったことのない人々が、きっと大勢いるのだろう。


 シーナも、自分の目で見てみたかった。


 ただ冒険がしたいから、というだけではない。


 灰穂村の外の人々が、どんな暮らしをしているのか知りたかった。


 ほかの街の通りを歩いてみたい。


 食べたことのない料理を味わってみたい。


 遠くの空も、ここで見る空と同じくらい青いのだろうか。


「……ルーン」


「ん?」


 シーナは遠くを見つめたまま、静かに口を開いた。


「もし本当にいつか、村を出て旅ができるようになったら……」


 ルーンは振り返る。


「どうしたの?」


 少女は少しだけ言葉を止めた。


 それから、隣に立つ少年を見て、柔らかく微笑んだ。


「そのとき、誰と一緒に行きたいか、考えたことある?」


――第五話「時計塔の上で」・了

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