第四話|待っていた人
「ルーン――!」
村の中央から、澄んだ声が響いてきた。
木剣を抱えて走っていた少年は足を止め、声のした方へ顔を向けた。
井戸のそばに、一人の少女が立っていた。
両手を腰に当てたその姿は、どうやらずいぶん前から誰かを待っていたように見える。
少女は、柔らかそうな薄茶色の長い髪をしていた。
毛先は後ろで無造作にまとめられ、朝の陽光を受けてかすかに揺れている。
白い頬には明るい光が差し込み、澄んだ瞳が少年をまっすぐに見つめていた。
彼女の名は、シーナ。
十三歳。
ルーンより一つ年上の少女だった。
二人は幼い頃から、この灰穂村で一緒に育ってきた。
ルーンにとってシーナは、誰よりも付き合いの長い友人だ。
それだけではない。
冒険の話になると、つい夢中になっていつまでもしゃべり続けてしまうルーンの話を、最後まで聞いてくれる数少ない相手でもあった。
「シーナ!」
ルーンは笑顔になり、足早に駆け寄った。
「どうしてこんなところにいるの?」
少女はすっと目を細めた。
「よくそんなことが聞けるわね?」
「え?」
「昨日、約束したでしょう? 今日は剣の稽古が終わったら、私のところに来るって」
ルーンの表情が、ぴたりと固まった。
「あ……」
シーナは小さくため息をつく。
「やっぱり忘れてたんだ」
「わ、忘れてないよ!」
「じゃあ、さっきまで何を考えてたの?」
「それは……」
ルーンは少しためらった。
しかし次の瞬間、何かを思い出したように得意げな笑みを浮かべた。
「今日ね、もう少しで父さんに勝てたんだ!」
シーナはしばらく黙っていた。
「……また、もう少し?」
「今度は本当に違ったんだって!」
「前にも同じことを言ってたじゃない」
「でも、今日は父さんも本当にびっくりしてたんだ!」
ルーンは興奮した様子で、手に持った木剣を振ってみせた。
「最初は肩を狙うふりをして、それから急に攻撃する方向を変えたんだ。もう少しで脚に当たるところだったんだよ!」
シーナはそんな彼をじっと見つめた。
「それで、勝ったの?」
「……勝ってない」
「じゃあ、負けたんじゃない」
「シーナ!」
少女はとうとう笑いをこらえきれなくなった。
ルーンは不満そうに頬を膨らませる。
「全然わかってない! 僕にとっては、ものすごい進歩なんだよ!」
「はいはい」
シーナは手を伸ばし、ルーンの髪についていた一本の草を取ってやった。
「私たちの大剣士様は、また一歩成長したんですね」
「絶対、からかってるだろ!」
「あら、ばれちゃった?」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑い始めた。
*
灰穂村の中央には、長い年月を経た時計塔が建っていた。
灰白色の石と濃い色の木材で造られたその塔は、外壁のあちこちに歳月の刻んだひび割れが走っている。
低い建物の多い村の中で、その姿はひときわ目立っていた。
村人たちにとって、この時計塔はただの古い建物ではない。
村の象徴であり、そこで生まれ育った多くの人々の記憶が重なる場所でもあった。
しかし、その時計塔は、もう長い間、正常には動いていなかった。
大きな文字盤にある二本の針は、ある一点を指したまま、静かに止まっている。
十一時四十七分。
太陽が何度昇っても。
何度、西の空へ沈んでも。
二本の針が動くことはなかった。
ルーンは顔を上げ、見慣れた時計塔を眺めた。
「セイロおじいちゃん、今日も時計を直してるのかな?」
「うん」
シーナはうなずいた。
「昨日も、また一本、縄が切れそうになってたんだって」
「どうしていつも直らないんだろう?」
「自分で聞いてみれば?」
ルーンは少し考えた。
「それもそうだね!」
そう言うなり、時計塔に向かって走り出した。
シーナは慌ててその後を追う。
「ちょっと! そんなに速く走らないでよ!」
*
「セイロおじいちゃーん!」
時計塔のそばでは、一人の老人が木製の作業台に向かっていた。
椅子に腰掛け、さまざまな部品を前に、何やら細かな作業をしている。
聞き慣れた声がすると、老人はゆっくりと顔を上げた。
頭髪はほとんど白くなり、顔には深い皺が刻まれている。
鼻の上には、少しくたびれた眼鏡が掛かっていた。
老人の名はセイロ。
六十一歳。
灰穂村で長年暮らす木工職人であり、この時計塔の修理も任されていた。
村の机や椅子、木製の扉、農具。
それだけではない。
子供たちが遊んで壊してしまった木のおもちゃまで、村にある多くの品々が、かつて彼の手を通っていた。
「おや?」
セイロは眼鏡を押し上げた。
「どこの騒がしい小鳥が飛んできたのかと思ったよ」
「僕だよ!」
ルーンは作業台のそばまで駆け寄った。
「セイロおじいちゃん、何してるの?」
「修理だよ」
「それは知ってる!」
「なら、どうして聞くんだい?」
「何を修理してるのかって聞いてるんだよ!」
セイロはほっほっと笑った。
その隣にシーナが歩み寄り、軽く頭を下げる。
「おはよう、セイロおじいちゃん」
「おはよう、シーナ」
老人はシーナを見て、それからルーンへと視線を戻した。
「ちょうどいいところに来たね、二人とも」
「どうしたの?」
「あそこにある道具箱を、こっちまで持ってきてくれないかい?」
ルーンはすぐに胸を張った。
「任せて!」
勢いよく壁際へ向かい、そこに置かれていた木箱を両腕で抱え上げる。
「よいしょっ!」
しかし、箱は想像していたよりも重かった。
ルーンの体が、わずかに前へ傾く。
「うぅ……」
シーナは笑いをこらえながら尋ねた。
「手伝おうか?」
「だ、大丈夫!」
「でも、腕が震えてるよ?」
「まだ準備ができてなかっただけだよ!」
そんな二人を眺めて、セイロは呆れたように首を振った。
「まったく、お前さんたちは……」
しばらくして。
ドンッ!
ルーンはようやく道具箱を作業台のそばに置いた。
「ふぅ……」
額の汗を拭う。
「できた!」
セイロは笑顔でうなずいた。
「ご苦労さん」
ルーンはたちまち得意げな顔になる。
「これくらい、僕には簡単だよ!」
シーナが彼を見た。
「じゃあ、さっき転びそうになってたのは誰?」
「もう、その話はいいだろ!」
*
セイロは道具箱を開き、新しい麻縄を一本取り出した。
ルーンは興味津々といった様子で身を乗り出す。
「それ、何に使うの?」
「時計塔の中にある古い縄と取り替えるんだよ」
「でも、あの時計って、とっくに壊れてるんじゃないの?」
セイロの手が止まった。
「誰が、鐘まで壊れたと言ったんだい?」
ルーンは上を指さした。
「ほら! 針が全然動かないじゃん!」
セイロはその指の先を見上げた。
十一時四十七分で止まった二本の針が、陽光を受けて文字盤に薄い影を落としている。
「あれは、時計の針を動かす仕組みのほうだよ」
老人はゆっくりと説明した。
「鐘を鳴らす仕組みとは、少し違うんだ」
ルーンは瞬きをした。
「どういうこと?」
セイロは手にした麻縄を持ち上げた。
「この時計塔には、時間を知らせること以外にも、大切な役目があるんだよ」
「ほかにも役目があるの?」
「警報だ」
シーナが少し顔を上げた。
「警報?」
セイロはうなずく。
「昔は火事が起きたり、村の近くに危険が迫ったりすると、この塔の鐘を鳴らしたものさ」
「その音が聞こえたら、村人たちはすぐに避難しなければならないとわかる」
ルーンは頭上にある鐘を見上げた。
「そうだったんだ……」
「だから、時計の針が止まっていても、警報の鐘だけは、いつでも鳴らせるようにしておかないとね」
セイロは古い縄を作業台の上に置いた。
その表面はひどく擦り切れていた。
ところどころ、わずかな繊維だけでつながっているような部分さえある。
「こういうものは、普段から手入れをしておかないとね。いざ必要になったときでは、もう遅いんだよ」
ルーンは考え込むようにうなずいた。
しばらくして、ふと口を開く。
「ねえ、セイロおじいちゃん」
「何だい?」
「それなら、どうして時計の針も直さないの?」
老人はすぐには答えなかった。
顔を上げ、文字盤を見つめる。
「……あれはね」
セイロは小さくため息をついた。
「直さなきゃいけないのは、針だけじゃないんだよ」
ルーンは首をかしげた。
「難しいの?」
「お前さんが思うより、ずっとね」
「でも、おじいちゃんって何でも直せるんじゃないの?」
セイロは思わず笑った。
「こらこら。そんなに大した職人じゃないよ、わしは」
老人は視線を戻し、再び道具を手に取った。
「わしにだって、直せないものはあるんだ」
ルーンには、その言葉の意味がよくわからなかった。
一方、シーナは静かに時計塔を見上げていた。
十一時四十七分。
あの時刻を、今まで何度見たことだろう。
物心がついた頃から、時計の針はずっとあそこにあったような気がする。
いつしか村の人々も、それに慣れてしまった。
まるで二本の針は、最初からあの場所で止まっているのが当たり前だったかのように。
*
「お前さんたち、上まで行ってみたいかい?」
セイロが突然、そう尋ねた。
ルーンは勢いよく顔を上げた。
「いいの!?」
「今日は上の装置も点検するからね。ちょうどいいし、連れていってあげよう」
「やったあ!」
ルーンは嬉しそうに飛び跳ねた。
しかし、シーナは少し迷っている様子だった。
「でも……お仕事の邪魔にならない?」
「ほっほっ、大丈夫だよ」
セイロは道具箱を持ち上げた。
「ただし、どこかのいたずら小僧が、勝手にものを触らなければね」
ルーンはすぐに胸を張った。
「そんなことしないよ!」
シーナが小さな声でつぶやく。
「その言葉が一番心配なんだけど……」
「シーナ!」
――第四話「待っていた人」・了




